最近は札幌市内でも熊出没が身近なニュースになり、これで北海道には知床どころか繁華街すすきの界隈にまで熊が出るような噂が日本中に定着しそうである。そんなことを考えていたら、どうも日本中が木の実などの不作であちこちで民家の近くまで出てきているようだ。これから書こうとしているのは、別に熊の話ではない。「1960年代に観光の呼び物として放たれた、静岡県の無人島・大根島のタイワンザルが殺処分されることになった」との新聞投稿を読んだことによるものである(2012.8.21、朝日新聞、読者の声、「サルの薬殺処分はむごすぎる」、京都自治体職員、男37歳)。

 熊の捕獲については前に書いたので(別稿「熊の処分」参照)でそのときの意見と多少重複するかもしれないが、投稿者の意見が変だとか偏っていると思ったわけではない。ただ、人の発想というのは、身近な危害から少し離れてしまうと、どこか無責任な残酷さを共通させてしまうことにふと気づいてしまったのである。

 猿は今から50年以上も前にこの島に放たれ観光業者が飼育管理してきたらしいが、恐らく人気がなくなってきたのだろう採算が合わなくなって管理しきれなくなり、他に受け入れ施設も見当たらないことから結局薬殺することに決めたのだそうである。そうした処置に対しこの投稿者は、「・・・人間の都合で連れて来られ、過酷な環境で生かされ、揚げ句の果てに殺されるとは、あまりにもむごすぎる。去勢手術してエサを与えながら、島で終生飼養することはできないだろうか・・・」と訴えている。そうした思いに共感できないではない。こうした駆除じみた行動に反対しようとする意見は、ここでの猿だけに限らず、その地域に住む害獣や害虫を駆除しようとして外来動物やそこには生息していなかった動植物を導入して逆に繁殖し過ぎ、その対応に戸惑っている国や自治体などに共通する行動でもあるからである。

 私はこの投稿を読んで、「有害と認定した動物を隔離し、去勢し、エサを与えつつ死ぬのを待つ」ことの流れの中に、日本におけるハンセン氏病に対する国の施策を思い出してしまったのである。ハンセン氏病については知識不足ではあるものの、何度かここへ書いてきた(別稿「ハンセン病と偏見」、「祈りの意味するもの」、「ゼロリスク願望は独善か」参照)。

 ハンセン病への強制的な隔離や収容を定めた法律が改正されたのはそんなに昔のことではない。それでも私たちはこの病を業病と呼んで見えないところへ隠し、その事実をないものとして蓋をしてきたのである。病気の原因や治療方法の確立、更には伝染の防止策の徹底などが不十分だった時代の中で、人々がこうした思いを抱いたことに、必ずしも私は傲慢だとか非道だとか、はたまた人間の驕りだなどとは思わない。

 ただ自らの手を汚さずに危険や目にしたくない事実から遠ざかりたいとする人間の本性とは、どんな場合にも共通しているのかと思ったのである。投稿者は殺処分をむごすぎると断じる。それは「命を絶つ」ことに対しての評価であろうことは自明である。だが「命を絶つ」こと以外の全部の選択肢が、「命を絶つ」ことでないというただそれだけの理由で「むごすぎる」ことから解放され正当化されるのであろうか。

 ハンセン病患者もまた断種の手術を強制された。それは患者を直接殺すのではないと言う意味において、「むごすぎる」ことから私たちを解放してくれるのだろうか。患者の隔離は死ぬまでであった。完治の保証がどこまでなされたのか、法律が改正されるまでの長い間に人々に浸透していったいわゆる「らい病」に対する偏見を含んだ思いがどこまで薄れていったか、つまり患者を社会がどこまできちんと受け止める基盤ができたかについて、私の知識は驚くほど乏しい。

 そのことが私を免責する理由にはならないだろうことくらい自分でも自覚している。それでもなお私は、「殺すこと」以外の選択肢の全部が、「むごすぎる」との評価に対する全面的な解決になっているのだとはどうしても思えないのである。投稿者は「去勢手術」と「終生飼養」をもって解決であると提言したいのだろう。
 人間と猿とは違うと投稿者は言いたいのかも知れない。私たちは人間に対して「去勢」と「終生隔離」を行なってきた歴史を持っているのである。その事実に猿や熊やエゾ鹿や、アメリカザリガニだとかブラックバスやブルーギルなどの外来種の駆除とを並列させるのは間違いなのかも知れない。

 「人の命は地球よりも重いのだから」という理屈が分からないというのではない。ホモサピエンスはまさに霊長類として他の多様な生物の上に君臨しているのだから、昆虫や家畜とは異なる扱いを受けたとしてもそれは当然であると思う気持ちの理解できないではない。そんなことを言っちまったら、私たちがペニシリンを注射するのは化膿菌に対する無差別殺戮であり、畑に除草剤を散布するのも蚊の駆除もみんな同列になってしまうではないかとの反論を理解できないではない。

 結局は「命とはなにか」に戻っていくのかもしれないけれど、人はどこかで残酷な生き物になっていくことに、私は途方に暮れている。それはどこかで保護すべき命とそうでない命、もっと極端に言うなら駆除すべき命の選別を私たちは、なんの躊躇もなく行なうことができるまでに傲慢になってしまっていることでもある。ここから先は命であり、そこより前は命ではないのである。
 そして命として認識した場合でも、去勢することによって数万年数百万年、もしかしたら数億年を経て育んできた子孫へと続く生物進化の道のりを否定しようとするのである。命に軽重の判断基準を入れようとする人の心は、そのまま例えば人種差別や出身地の違い、更には経済的な格差であるとか障害や能力の程度にまで及ぼうとしている。

 答えを見つけられないのが口惜しいのだが、私はこの猿への薬殺に代えて去勢・終生飼養の道を選べないのかとする意見の中に、かつての奴隷制度をなんとも感じていなかったギリシャやアメリカ、更にはユダヤ人撲滅を計画した途方もない思い込みを見てしまうのである。
 そしてもしかしたら、最近話題になっている胎児の遺伝情報を出産前に母親の血液検査から判定し、ダウン症やその他の遺伝的な異状を検査して産むかどうかを決める出生前診断とも、どこかでつながっているように思えてならない。へそ曲がりで、ノーベル賞受賞者にもサッカー選手にもなれないことが、もし生まれる前から分かっていたとしたら、私のような子どもをあなたは産みたいと思いますか。・・・・・・・、いいです。答えは聞きたくないですから・・・。


                                     2012.10.20     佐々木利夫


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猿薬殺からの連想