テレビ番組などで、顔中くしゃくしゃにしながら「うまい、おいしい」を連発している姿を見るたびに、その表現に胡散臭さを感じつつも、自分がそんな場面に遭遇したことがないことに逆に味音痴を自覚させられる。そんなこんなはこれまで何度かここへ書いたことがある(別稿「料理オリンピック」、「味覚音痴」、「料理番組あれこれ」、「料理番組再び」参照)。

 だからと言って味音痴の自覚が私の事実だと確信しているわけではない。もちろん自分に天与の味覚の才があるとは思っていないものの、普通人並みには美味しいとか不味いなどの味覚はあるとの自惚れはどこかに潜んでいる。そして逆に言うなら、テレビで美味しさを撒き散らしている色々な人の映像は、余りにも「美味しさ」を強調し過ぎていて、逆に嘘っぽくなっているのではないかとすら思うのである。自分の能力を超えることのすべてを「すっぱいぶどう」にしてしまうのは間違っているとは思うけれど、そんな素晴らしい味に出会わない私に、いささかの自虐もあっての「味音痴」宣言である。

 だからというわけではないのだが、最近味に関する「ことばは味を超える 美味しい表現の探求」(瀬戸賢一編著、海鳴社)を読んで、ますます私の味覚に自信が持てなくなってきた。かなりのボリュームの本で、味に関する表現を様々な角度から分析し、数多くの表現の資料も集めていて、いささか持て余し気味ではあるものの興味深く読んだ。そして改めて、私に味に関する自覚というか、舌の能力不足を思い知らされたのである。書いてあることの言葉としての意味は分かった。だが言葉からつながる味の実感がまるで伝わってこなかったからである。

 本には無数とも言える味の言葉が羅列してある。ネットで検索したデータも多いと書いてあったから、味の表現に関する様々な言葉がネットには溢れているのだろう。だからと言って、その中から私に理解できない味に関する言葉を選ぶのにそれほど難しく考える必要はない。任意に開いたページからいくらでも見つけることができる。

 例えば「丸い味」というのがある。テレビのコマーシャルでも、料理番組でも、またレシピ本などでも普通に使われる言葉である。何となく分る。料理や菓子や酒などのどんな味についても、この「丸い」との形容詞がその品物を褒めているのだろうことは分る。「丸い」にしろ「まろやか」にしろ、他の商品や料理などよりも対象とされたものが一段上であることを言っていることが分らないではない。

 でもそれが「味」としてどう違うのだろうか。ある人の表現した「丸い味」が、他の人に対してどんな「味」として伝わるのだろうか。AチョコレートとBチョコレートを食べた人が、またはAチョコを単独で食べた人が「Aは丸い味がする」と評したとき、それはどんな「味」を意味しているのだろうか。その味は他人にどんな風に伝わっていくのだろうか。少なくとも私には「この酒の味は丸い」と言われても、実感的な味としては伝わってこない。

 水餃子の表現としてこの本にこんな言葉が載っていた。「皮の中でこれらの食材が奥深いハーモニーを奏で・・・」(P104)。美味しいことを伝えたいとの気持ちは分かる。でも「奥深い」とはどんな味なのか、またハーモニーという語にどんな味覚を伝えさせようとしているのか、私には少しも理解できなかった。「このあんこう鍋は・・・『満寿泉』の吟醸酒とあたかもバッハの二声のインベンションの上声部と下声部のようにもつれ合いからまり合い対立し、舌の上で天上の音楽をかなでてくれた」(P105)もそうである。これは一体どんな味を伝えたいのだろうか。言葉通りの意味だとするなら、恐らくこの味はこの言葉を読んだ誰にも伝わらなかったのではないだろうか。

 「酒の場合も失敗すれば元の水の味を濁らせる。成功した時には元の水のあじをふくらませ・・・」(P106)だって、濁るとかふくらむの意味がその酒を仕込んだ水を批判したり、称賛したりする意味に使われているのだろう程度には分るけれど、味の意味としてはまるで伝わってこない。

 中でも気になったのは、「素材の味を生かす」であった。こんな表現は日常的に耳にしているような気がする。「素材の味が生きている」と言うのが、食べたトマトを褒めていることは分る。だとするなら私たちが普通に食べているトマトや魚や肉などは「素材の味が生きていない」のであり、だから「素材の味を生かす」ことが賞賛されるのだろうか。

 私がこの本を読んでいて、基本的に言うならどんな言葉も「分るようで分らない」ことだらけだった。「丸い」、「こってり」、「深い」、「やさしい」、「透明な」、「癖のない」・・・、などなど、恐らく無数とも思える味に対する表現のどれもが私には「味」としては伝わってこなかったのである。そして私の味に対する理解力はまさしくこれしきのものであり、音痴そのものだと残念ながら思ったのである。

 しかしその反面、へそ曲がりを特徴とする私の頭は、こんな二つのことを囁いてきた。一つは、味音痴とは「美味い味」と「不味い味」の区別が分らないことを意味するのなら、私は「無味」の世界にいるのだろうかということであった。風邪をひいて食事の味がしないとか、ある種のミネラルが不足して味覚障害を起こす例のあることを知らないではない。だとするなら私は違う。私の食生活が無味の世界を漂っているわけではない。カレーライスが美味かったり、アンパンや焼肉が美味いと感じているからである。
 それなら味音痴とは美味いと不味いを混同してしまうことなのだろうか。多くの人が美味いというスキヤキが私には不味いと感じ、その反対に不味いと感じる納豆などを美味いと感じることを言うのだろうか。もしそうだとするなら私は味音痴ではないし、仮に味音痴と呼ばれたとしてもそのことを私は少しも恥じることなどないだろう。

 さてこの本を読んでのもう一つの疑問は、書き言葉と話し言葉の違いについてであった。この本が集めた多くのデータは、他の書物からにしろネットでの収集からにしろ、すべて書き言葉からのものである。本の中身を隅々まで漏れなく読んだわけではないから例外があるかも知れないけれど、「会話から拾った言葉」からの例示はなく「書いてある文章」からの収集であった。

 そして思ったのである。私たちが「美味しさを伝える語」、もっと厳密に言うなら「味を伝える語」は、現実的にはほとんど場合書き言葉に依存しているのではないかということであった。そして更に思ったことは、私たちがふんだんに利用している「味に関する言葉」というのは、ほとんどが「書き言葉」に限られており、「話し言葉」としての語彙は極端とも言えるぐらい少ないのではないかということであった。

 先に引用した文章であるが、例えばその著者が友人と一緒にあんこう鍋を突きながら吟醸酒を飲んだとする。そのときその友人と「これは美味いね」とか「この酒と合うね」とか「この店のあんこうはすばらしい」などとは言うかも知れない。しかし会話として、「バッハの二声のインベンション」だの「ハーモニー」などとは決して言わないのではないかということである。

 本来味を伝えるのは、会話であって文字ではないはずである。文字を使った味の伝達は、味を伝える手段としては邪道なのではないだろうか。邪道と言ってしまっては言い過ぎかも知れないけれど、今食べている味を仲間や家族に伝え、更にはその味を共感させようとするには、会話としての話し言葉の中にこそ味言葉として存在するのではないかと思うのである。そして「会話としての味言葉」つまり味の話し言葉が書き言葉に比べて極端に少ないという現実は、逆に言うと言葉が貧弱なのではなく「味というのはそんなもんさ」であり、そもそも「舌」というのはその程度の構造や機能しか持っていないのではないかと思ったのである。

 極論を言うなら、書き言葉としての味言葉は基本的には嘘であり、そこから他者と味の共感を得ようとするのは間違いではないかということである。そしてもっと大事なことは、たとえて「天上のハーモニー」を聞けなかったとしても私は決して味音痴ではなく、もし私を味音痴と呼ぶのなら世の中の多くの人、もしかしたら世界中の人々が私同様の味音痴になってしまうのではないか、ということであった。

 味がレシピに帰結するなどとは言わない。例えば魚を調理するときに、内臓の残し加減や骨との境界の分け方、調理や口に入れるまでの時間、皮の始末、盛り付けや部屋の温度や明るさなどなど、様々な要素が絡んでくることだろう。でもやっぱり私は「丸い味」はどこかでレシピに還元できるのではないかと思っているのである。そしてもしそれが還元できないというのならば、その味は「企業秘密」だとか「職人技」などと言った「誰も真似のできない技術」という抽象性に糊塗した、一種の嘘なのではないかと思ってしまうのである。


                                     2013.10.17    佐々木利夫


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味音痴再確認