中国(中華民国)が日本と、尖閣列島問題でもめたり(別稿「魚釣島の領有権」、「日本の海域」、「島をめぐる紛争」など参照)、防空識別圏を勝手に設定して領海だ領空だなどの問題を起こしている(別稿「防空識別圏」、「中韓との和解」参照)。そうかと思ったら、こうした問題は日本だけでなく遠くインドや東南アジアとも共通していることが分ってきた。インドとは海洋としては遠く離れているので、パキスタンなどの内陸部で接しているからだと思っていたのが、実は海からも同様の問題が起きていることが分った。それで中国の言う防衛識別圏などの主張が、どんな意味を持つのかに少し興味が出てきた。

 原因は中国が日本周辺の東シナ海だけでなく、台湾以南の南シナ海でも、その影響力を広げようとしていることにある。そこで防衛識別圏などの線引きどう主張しているのかや領海や領土の主張などについて、中国周辺の地図をそれとなく眺めていた。そしてふと気づいたのである。なんと、中国には海のないことが分ったのである。

 海のない国は世界には多々あるだろう。どのくらいあるのかは、私の知識にはまるでないから分らないけれど、例えば小国に分割されているヨーロッパやアフリカなどに多いだろうことは理解できる。それでもアメリカやソ連などに匹敵する面積的にも巨大な中国が、海を持っていないとは信じられなかった。
 もちろん「中国に海がない」と言ったところで、例えば四方を他国に囲まれた内陸部だけの国であることを意味するのではない。中国は北部をロシア、西部をヨーロッパに接しているけれど、東側や南部はそのほとんどが海岸線である。だから中国が海を持たないとの理屈は間違いである。

 にもかかわらず、上に掲げた地図からも分ると思うけれど中国は、東側は日本に閉じ込められ、南側は東南アジアにぐるりと取り囲まれているのである。このことは、中国は領海こそ広く持ってはいるけれど、その領海に隣接し自らが自由に航行できる公海への道が閉ざされていることを意味している。

 もちろん私は「公海」のきちんとした定義を知らない。だから中国に公海がないと断ずることはできないし、また公海に隣接する領海という理解そのものが誤解なのかも知れない。でも例えば日本を見てみると、日本の南方には広大な太平洋が広がっており、ハワイ諸島などの僅かな小島を除くなら、オーストラリアまで公海が続いているといってもいいほどである。つまり日本は、領海から広大な公海へと自由に出ることができるのである。

 それに対して中国は、自らの領海はあるものの、そこを出て公海にいたる通路は閉ざされている。つまり自国の領海に隣接するのはぐるりと他国の領海であり、自国の領海から公海に接する区域を持っていない(あくまでも私の地図を見た上での実感である)のである。

 これではまさしく、自分の庭は広く持っているけれど、他人の敷地を通らなければ公道に出たり車を運転したりすることはできないことを意味する。もちろん、民法にも袋地の規定があるように、公海に出るための諸権利の保証は国際的にも認められていることだろう。ただ、それでもそれはとても迂遠であろうことは容易に想像がつく。恐らく隣国の領海を通過して公海に出るための手続などは複雑ものになるだろう。

 袋地の権利が認められていても、「私有地につき通行禁止」みたいな嫌がらせは、私的場面でも起きていることは私たちの知るところだし、国際的にも外交や貿易などの交流が関連してくるなど複雑な要素が絡むだろうことは少し考えただけで分る。そうしたとき、公道を私の家の庭につなぐことができれば、こんな便利なことはない。誰に気兼ねすることなく、深夜や早朝に限らず好きなときに、好きなだけ公道を利用して社会とつながることが出来るからである。

 中国は巨大な領土を持ちながら、国際的にはこれまで貧しい国であった。それが今やアメリカに次ぐ経済力を持つようになり、そのうちにアメリカを凌ぐだろうとさえ言われるようになってきている。私はそうした経済大国になろうとしているほどの力を持つ国が、自らの庭に公道を引き込もうとしている行為が、現在の尖閣列島や防空識別圏などの国際紛争の火種になっているのだと思う。

 他国の領海と自国の領海とが接しているとき、そこを通過して公海に出るのが煩わしいのならば、他国の主張する領海の一部を自国の領海として主張するか、もしくは公海だと主張するしかないだろう。国際的には領土から一定の距離を領海として主張することが認められている。そうすると、領海の基本は領土にある。大陸としての領土は領土争いなどもあるからどんな場合も問題がないとは言わないが、多くの場合確定している。そこで問題となるのが、例えば人の住まないような「小島」が対象となる。

 周囲100メートル以上が国際的な島の基準らしいが、ある小島が、島として認定されるとそこは領土として認められることになる。そして必然的にそこを基準に領海の線引きが行われることになる。したがって領海の問題は必然的に領土問題に関わってくることになる。

 溢れるほどにも広大な公海に隣接している日本と、隣接する公海を持たない中国との攻防、尖閣列島を巡る諸問題は、つまるところ領土問題に行き着くのである。領土が「国として成立ための基本」であることは明らかである。だから領土問題を決着させるのは非常に難しいことだと思う。

 領土問題を話し合いで解決することができるのか、場合によっては未解決のまま形式的対立を続けることで問題を先送りさせてしまうのか、それ以外に両国と両国民が納得できる何か良い知恵を見つけることができるのか、いずれにしてもことは簡単に進まないだろう。人の知恵というのはこれしきのものでしかないのかも知れない。

 もしかしたら、土地所有の宣言や維持というのは、動物の縄張りと同じように力の強い者が力によって支配するしか方法がないのだろうか。領土の宣言というのは、つまるところ我が家の所有権などと同じように、例えば国という組織が力によって「証明する」ことで形成される、一種の仮想の権利なのだろうか。
 憲法改正論議や集団的自衛権などの論議がかまびすしい。自衛しないと他から攻撃されたときに無防備のままでいいのか、などの意見にどうしても説得されそうになる。そして「力を持つこと」に反対する意見は、一括して「平和ボケ」の中に押し込められてしまいそうである。「平和ボケ」がそれほど悪いことではないのではないかと思っている私にとって、世の中はどことなく住みにくくなって来ているような気がしている。


                                     2014.3.15   佐々木利夫


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海のない中国