久し振りに絵本に触れる機会を得た。特別に絵本を意識したわけではないのだが、図書館へ予約した2冊が「死海文書」に関するもので内容が比較的重そうだったこともあり、合間に軽い本でも味付けに加えてみようかと思ったのが動機である。それにその直前に読んでいた「かーかん はーい 子どもと本と私A」(俵 万智、朝日新聞出版)の中に紹介されていたこの絵本がどこか気になっていたものだから、それでつい上記の予約の中に含めてしまった。

 「どうぞのいす」(香山美子作、柿本幸造絵、ひさかたチャイルド発行)は、まあ普通の絵本である。私自身絵本は好きな方なので、これまでもこの場にいくつか紹介してきたが(別稿「百万回生きたねこ」、「エリカ 奇跡のいのち」、「はらぺこおなべ」、「ハチドリのひとしずく」、「無人島ウイー」などなど)、それらから比べるなら特別どうってことのない絵本である。
 それでも気になったのは、ここに書かれているキーワードが私たちが失ってしまっている大切な落し物を表しているような気がしたからである。

 そのキーワードとは全編を通してたった一言、こんな言葉である。

 「でも からっぽにしてしまっては あとの ひとに おきのどく」

 物語はうさぎの作った小さないすから始まる。うさぎはそのいすを近くの草むらの木陰に置き、その傍らに「どうぞのいす」と書いた立て札を立てるのである。どなたでもこのいすで自由に一休みしてくださいの意味である。
 最初のお客さんはろばさんだった。ろばさんはどんぐりの入ったかごをそのいすの上に置いて、そのまま近くで昼寝をしてしまう。次に来たくまさんは「どうぞ」と書かれたいすの上のどんぐりを見て、どうぞ自由に食べてくださいの意味だと錯覚し残らず平らげてしまう。当事者の互いが善意でも、時に誤解を生むという典型でもあろうか。空っぽになってしまったいすの上のかごをみてくまさんは、思わず先ほどのキーワードをつぶやく。そして自分が持ってきたはちみつをどんぐりの代りにそのいすの上に置いて立ち去るのである。

 まだ眠り続けているろばさんの傍らで、誤解の連鎖はその後も続く。次にやってきたきつねさんもいすの上のはちみつを同じように全部平らげ、そしてこのキーワードをつぶやいて手持ちの焼きたてのパンを置いていく。ろばさんはまだ昼寝の最中である。次に通りかかった10ぴきのりすさんたちはやきたてのパンを見つけて仲間できれいに食べてしまい、空っぽになったいすをみてこのキーワードをつぶやきながら持っていたくりの実を代りに置いていくのである。やがて目を覚ましたろばさんは、いすの上のくりを見て「どんぐりって、くりのあかちゃんだったの」とびっくりする。

 絵本はここで終わる。誤解が仮に善意であったにしろ、時にその誤解が人を傷つけることだってある。ここに登場する動物は揃いも揃ってうさぎの気持ちを誤解する。うさぎが「どうぞ」と書いたのは、自分の作ったいすで誰でもいいから腰掛けてお休みくださいとの意味を込めたメッセージだった。それを、いすの上にあるものをご自由に食べてくださいと誤解したのはくまさんである。しかしくまさんがそんな風に誤解したことに何の過失もない。

 くまさんが食べてしまったことでろばさんは、苦労して集めてきたどんぐりを全部失くしてしまうことになった。しかしそれは食べてしまったくまさんを責めたところで仕方のないことである。くまさんがいなくなってもろばさんはまだ昼寝の最中だったから、たとえ目が覚めてどんぐりのなくなったのに気づいても、それは誰かに盗まれたのか悪意で食べられてしまったのか、はたまた風に飛ばされてしまったのか、どちらにもせよ持ってきたどんぐりは諦めざるを得ないことになる。
 今の時代なら、こうした被害はまさに管理不行き届きによる自己責任である。食べてしまった犯人を自ら見つけ出してどんぐりを取り戻すか、警察に駆け込んで探してもらいくまさんにその損害を賠償してもらうか、それともいすの上にどんぐりを放置したまま昼寝をしてしまった自らの行動を軽率だったと認めて追求を諦めるか、そのいずれかをろばさんは選択することになるだろう。

 だが作者はそうした解決以外に新しいキーワードを見つけ出した。新しいと言ったところでそのキーワードは私たちがこれまで幾度となく使い古してきた当たり前の優しさからくる言葉であった。
 次々とあらわれる動物の中で、誰か一人がこのキーワードを忘れたり忘れたふりをしてしまうことで物語の意図はあっさりと破綻してしまう危うさはあるけれど、誰もがこのキーワードを持っているなら世の中はいつも平穏であり続けることをこの絵本は教えてくれている。

 目を覚ましたろばさんは、途中のくまさんやきつねさんやりすさんの行動を知らない。しかもその誰もがキーワードに基づく自らの行動を正義だとか善意などと意識しているわけではない。当たり前の思いが当たり前に続いているだけのことなのである。だからこの物語は一つの「連鎖」ではあるけれど、決して「善意の連鎖」なのではない。くまさんがはちみつを置いていったのは、どんぐりを食べ尽くしてしまったことを悔いたことによるものではないからである。

 それにもかかわらず、この世界は平穏である。こうして俯瞰的に動物たちの行動を見ていると、なんだか善意の塊りで物語が進んでいくように思えるけれど、それぞれは決して「思いやり」だとか「親切」でこのキーワードを呟いたのではない。どんぐりやはちみつやパンやくりの対価として代わりの品物を置いていったのでもない。キーワードそのものが日常の当たり前の思いだったからだと思うのである。

 さて、利害にすっかり凝り固まっている我が身にしてみれば、「私のはちみつは私の物」であり、どうぞと置いてあるどんぐりは私への善意の贈り物である。共にわたくししたところで誰に責められることもないだろう。かくして私は二つのおいしさを一人で味わう特権を得ることができたのである。そしてそのことに何の痛痒も感じないまでに私はすっかりと、そしてしっかりとした、しかも厚顔無恥を承知で言うのならごく平凡で当たり前の大人になってしまっているのである。



                                     2010.4.14    佐々木利夫


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