この頃、命について考えるのが私の癖みたいになっているが(別稿「命の連続」、「イルカ喰」、「脳死と死と命」、「余命宣告の意味するもの」、「他人(ひと)の命」などなど)、同時に「人が生きていることに対する実感」もまた少しずつ人々の間で希薄になりつつあるような気がしてきている。

 これは最近読んだ本の一節である(大平光代、「今日を生きる」、中央公論新社)。

 「・・・傷害事件を起こした子に被害者の気持ちをわからせようとしたけれど、いくら話してもわかってもらえない。それで自分の手をつねらせて『どう?』って聞いたのです。
 『痛い』と言うから、『そうでしょう。貴方が痛いということは、他人だって痛いんだよ』と。そうすると、『自分は痛いけれども、他人は痛くない』と言うのです。もちろん、強がりや反発心などからそういうことを言ってる可能性もありますので、慎重に確認しました。けれど、本心からそう思っているようなのです。
 これには驚きました。
 他人の痛みがわからないというのとは違って、そもそも『他人は痛くない』と思っている。相手もまた、自分と同じ血が流れた人間だとか、いのちあるものだという感覚を持っていない。・・・」(P185)


 人が他者とどの程度まで共感できるかはそんなに簡単に理解できるようなものでないことくらい、多少なりとも分かっているつもりである。戦争や犯罪から仲間同士のいじめなどにいたるまで、時に人がこんなにも残酷になるれこともそうした共感の親疎における延長線上にあるのだろうことも理解できないではない。
 それでも「他人の痛み」と「自分の痛み」をどこまで異質だと考えているかの距離の違いはともかくとして、「他人は痛くない」と思い込んでいる姿は、異様さを超えていささかの恐怖でもあった。

 もちろん他人の痛みは私の痛みとは違う。たとえ家族が歯の痛みで苦しんでいたとしても、仮に友人が手術を受けて病床で「うんうん」うなっていたところで、その痛みそのものを私が実感することはない。目の前で七転八倒して苦しんでいる姿に相応の共感や同情は抱くだろうし、時に慰めや労わりの声をかけることもあるだろう。しかし、その人の感じている痛みそのものを私が直接感じることはない。薄情かも知れないけれど、そういう風に人はできているのだと思う。

 だがそのことと、「他人は痛くない」と思うこととはまるで違うのではないだろうか。たとえ私にこれまで歯が痛かった経験がなく、腹痛に悩んだ記憶がなかったとしても、転んだり怪我をしたりなどを通じた「痛み」は人が生きていることの一つの証なのだから、そうした記憶と目の前の他人の歯の痛みとを並列に置くことができることもまた人の素直な姿だと思うからである。

 だが上記で引用した事例によるなら、その子にとって「他人は痛くない」のである。自分の痛みの延長に他者の痛みを並べることができないのである。それはまさに「他者もまた生きている」と感じることへの共感の喪失ではないだろうか。

 数年前(2004年)のことになるけれど、長崎県佐世保市で小学校6年生の同級生による殺人事件があった。事件の後で長崎県の教育委員会は、県内の小中学生約3600人を対象にしてこんな質問を実施したのだそうである。

 「死んだ人は生き返るか」

 なんと、この問いに「はい」と答えた人の割合はこうであったと新聞は伝えている(朝日、2009.1.8、「で!どうする」より)。

 小4 14.7%、小6 13.1%、中2 18.5%・・・・

 人の命はいつの間にか人の数とイコールではなくなっているのである。人としての当然の約束なり前提であったはずの命の共感が、少なくとも私の認識からは大きく変節していっていることがこのアンケート結果から分かる。
 そう言えばこうした気配は以前からあったのかも知れない。かなり以前の話だが、カブトムシのもげてしまった足を接着剤でくっつけようとする子供がいたとの話を思い出したからである。

 そうした事実を命の軽視など呼ぶのは誤っているのかも知れない。軽重を考えられるのは、そこに分母としての一つの共通した命の価値基準があるからである。自分の命と他人や他の生物の命との間に仮に重さの違いを感じているとしても、少なくとも「命の終わりとしての死」の認識がぎりぎりの線で共感できていると思うからである。

 「人は死ぬ」そんな簡単なことに対してすら、人は共感できなくなってきている。「他人は痛くない」との思いはそのまま他者の命に対する共感の喪失の始まりである。人は少しずつ死ななくなっているのである。人は痛みも感じなくなりつつあるのである。共感できないことの増加、それは人が人でなくなっていく過程なのだろうか。それとも共感とは他者の痛みを自己のものとして感じることでもあるのだから、もしかしたらその痛みに耐えられないことに対する無意識の自己防衛が、不感の砦を築いているのだろうか。共感は自身が血を流すことへもつながっていくのだろうか。

 「自他の痛みに鈍くあれという時代の流れ」(宮地尚子、一橋大教授、朝日新聞 2010.3.18)の只中に、現代人は否応なく巻き込まれていっているのだろうか。

 今ならばまだそこに少なくとも「自分の命」、「自分の痛み」くらいは残されているかも知れない。だが、間もなく人は自分の命も実感できず、自分の痛みも感じなくなるような時代がやってくる。いやいや、既にもうすぐそこまでやってきているのかも知れない。そしてそのとき人は、人であることをやめる(もしかしたら人であることからの解放)のだろうか。



                                     2010.3.18    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



死なない人