スポーツ嫌いの私が(別稿「
私はゴルフが嫌いです」、「
実は野球も嫌いなんです」参照)、スポーツについてあれこれ論じたところで何の説得力もないだろうことは承知である。そうは言っても中学、高校では水泳、体操をけっこう一生懸命やっていたから、私の人生がスポーツとまるで無縁だったわけではない。
これから書こうとしていることは、以前にも似たような内容で触れたことがあるので多少重複するかも知れないが(別稿「
スポーツの意味」、参照)、最近のスポーツが本来のスポーツからどんどん離れていっているのではないかとの思いが、個人的なスポーツ嫌いと相まってこのところますます増殖していっている。
サッカーや野球などのテレビ中継がこんなにも盛んなのはそれだけファンの数が多いことの証でもあるのだろうから、私の意見は単なる私の好みの問題にしか過ぎないのかも知れない。ゴルフやスキー競技のテレビを見ていて退屈するのは私のような少数派だけであって、仮に同じように退屈に思う人が他にいたところでトータルとしては退屈しない人や積極的に観戦したいと思う人のほうがずっと多く、だからこそテレビは視聴率を狙って中継をするのだろう。
だがそうした人気は、テレビなどによる観戦用に作られたスポーツだからであり、場合によってはスポーツ団体の営業であるとか国の施策みたいなものの宣伝に利用されているだけにしか過ぎないのではないかと思うことがある。
それは私の抱くスポーツ観が余りにも原始的なレベルに止まっているからなのかも知れない。もしかしたら私の思いには「スポーツ」と呼ぶことすら憚かられるくらいの幼稚さが含まれているかも知れない。なんたって私のスポーツ観には、どちらかというと「駆けっこ」であるとか「仲間との遊び」みたいな意識が根っこに染み付いているからである。
水遊びから「水泳」に変っていく過程や、駆けっこが「100m競走やマラソン」に変わっていく過程にどんな歴史があったのか私にはまるで知識がない。だが間違いなく逆上がりが「鉄棒」と呼ばれるようになったり、戦いの手段であった剣や弓が「剣道」であるとか「弓道・アーチェリー」などと名前が変っていった中には、何かとてつもない大きな変革が隠されているように思える。
私がスポーツに疑念を感じたのは前述した「
スポーツの意味」でも触れたように、スポーツ選手がそのスポーツのために体を壊していくことの多さにあった。本来スポーツとは健康を意味し目的にするものではなかったのか、そんな気持ちでスポーツの意味であるとか目的などを意識しだすと、近代スポーツにはいわゆる「運動」と言ったレベルを超えたなんとも特別な中味が含まれていることに気づいてくる。
その一つが「ルール」である。確かにルールは一つのスポーツの公平であるとか公正を目的としているものだろう。地域や集団同士による個人やグループの勝敗を、同じ条件での優勝劣敗と言う普遍的なルールの下で決定することに何の不思議があるかとの意見があるかも知れない。それはそうかも知れない。だが本当にそうなのだろうか。
私は以前「
ウサギとカメ」や「
北風と太陽」などの童話を論じた中で、偏ったルールの下での競争には意味がないのではないかと書いた。その思いは今でも変わっていないつもりである。
それでもなお私は、ルール化がスポーツを変節させたとの思いから抜けきれないでいる。例えば格闘技である。相撲はまだオリンピック種目にはなっていないけれど、柔道や剣道やレスリングなどなど多くの格闘技がオリンピック種目になっている。少し付け加えて置きたいが、私はオリンピック種目に含まれていることとスポーツとを特別に結び付けようと思っているわけではない。ただどちらかと言うとオリンピックには「純粋なスポーツ」としての相対的な位置がありそうに思えるのでそんな意味を持たせて掲げただけである。
剣道・・・、それは恐らく剣や刀による戦いに起源を持つものであろう。いかにすれば闘う相手に勝つことができるか、そうした戦闘における勝つための訓練が発祥ではないだろうか。「相手に勝つ」とは何か。それは決して勝って優勝カップをもらうことではなかったはずである。勝つとは相手を殺すことである。闘うことの訓練とは生き残るための手段であったはずである。だからもしかしたら剣道の発祥は真剣勝負、つまり命がけの訓練にあったのではないだろうか。これは恐らく剣道のみならず格闘技そのものの持つ宿命ではないかと思う。
だが私たちはそれにルールを課してスポーツとしての意味を持たせることにした。真剣は木刀に変わり、禁じ手を設けて相手を保護するようになった。命がけであったはずの訓練は、やがて「絶対安全」を意味するものになり、やがて楽しめるスポーツへと変化し競技者以外に観戦者という新しい対象を取り込んだ。そうした変化はすべての格闘技についても言えることであり、同時にあらゆるスポーツが辿ってきた道ではなかっただろうか。
そのことについて否やは言うまい。道筋が間違いだとも言うまい。ただ、少なくとも命がけから絶対安全への変化は、その運動の持っている意味を根元から変えたように私は感じている。
ルールを決めることはいい。ルールの背景には公正な競争原理の要請がありそれによって「勝ち」、「負け」を決めたいと願ったこともいいだろう。しかし私には、そのルールを定めたことがどこかで「命がけ」や「駆けっこ」などが持っている純粋なスポーツの意味を大きく変えてしまったのではないかと思うのである。
もちろんそうした変化への背景には、変節したスポーツに対する私たちの余りにも過激な「勝敗に対する反応」があっただろうことは否定できない。高額な報酬や賞金や人気に付随した名声、そしてそれらの螺旋的な循環や沸騰・・・、こうした金銭に結びついた名声はそのまま落伍することの破滅への意識をも生んだ。
オリンピックを生んだクーベルタンは、「参加することに意味がある」ことを宣言したが、今やその言葉を言葉通りに信じている者などどこにもいない。メダル獲得の数がそのまま国の威信にまでつながっていることはオリンピック前後の世界のマスコミ論調を見れば一目瞭然であり、それは旧くナチスのヒトラーがベルリンオリンピックの開会式場で行った演説などにまで遡ることができる。ことの真実は知らないけれど、現在でも金メダル獲得者には生涯年金が保証され、マイホームやマイカーなどが与えられる国もあるとの話も聞いたことがある。
あらゆるものに金が絡んでくるのは近代社会の当然の姿かも知れないから、スポーツが経済や政治などと同じような轍を踏んでいるからと言って悲観するほどのことはないのかも知れない。だがそうした金にまみれたスポーツが競技者の勝利への意識を余りにも曲げ過ぎてしまっちのではないだろうか。自らの体を壊してまで勝つことにこだわるアスリートたちの姿はどこか異常であるような気がしてならない。そうした意識はやがてドーピングという行為にまで波及していっている。しかもそのドーピングも単なる薬物の服用にとどまらず遺伝子操作による人体改造にまで及んでいるとも聞いた。
恐らくここまで変節してしまったスポーツを治療することは難しいかも知れない。ならば金にまみれているのならそのまままみれさせておけばいいのではないだろうか。そしてそんなものをスポーツだの健康管理だの人格形成などと言った範疇からすっぽり外してしまえばいいのではないだろうか。
「スポーツとはショウ」であり、単なる見世物であると言い切ってしまうことのほうがどれだけすっきりするだろうか。たとえアスリートが麻薬でぼろぼろになろうとも、臓器移植で筋肉もりもりの怪物ができようとも、人体改造でサイボーグ化してしまおうとも、かつての見世物小屋にかかったと言われる「ろくろ首」や「へび女」みたいに本人が納得しているなら高価な報酬を支払ってでも見世物として割り切ってしまっていいではないか。
私には今でも残っているかに見えるスポーツに対する「根性」だとか「精神」、そして健全なる肉体みたいな神話が、近代スポーツそのものを逆に貶めているように思えてならない。
イチロー(アメリカで活躍中の野球選手)が10年連続200本安打まで残り3本だと今朝のニュースが伝えていた。また、つい先日来日したマイケル・サンデル氏は大学での講演でイチローの年俸はオバマ大統領よりも高額なのは道徳的に公正なのかについて生徒と議論したとも聞いた。そのことの是非をここで言いたいのではない。見世物としての人気が高いなら、どんな評価どんな高価な報酬だっていいではないかと思うし、そのためにドーピングをしたいというのならさせてもいいではないかとすら思うからである。
ただそうした人気に対して、それがショウであるにもかかわらずそこから離れて、健全さであるとかスポーツにおける精神論みたいなデコレートされた虚像を作り上げてしまうことにはどこか疑問が残るのである。ショウであることとスポーツであることとはまるで相容れないのではないかと私は思い、そこを混同してしまっていることで近代スポーツの行き先が混迷してしまっているように思えてならない。
例えば相撲もそうである。少なくとも現在の姿が一種のショウであるにもかかわらず、そこを隠してしまって「心・技・体」みたいな精神論であるとか、更には「国技」であるかのような衣装を纏わせることが、例えば外国選手の多用であるとか賭博とのかかわりなどの問題へとつながっているような気がする。
スポーツを本来のスポーツへともう一度戻したいと思うのならば、現在のような余りにも過激な金権体質であるとか名誉などへ固執するような成り上がり体質を、アスリート・観客ともども見直してみる必要があるのではないだろうか。たとえその道が「国際化」と呼ばれるいかにも王道みたいな響きから遠ざかるものだとしても・・・。
2010.9.23 佐々木利夫
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