サクセスストーリーの鼻持ちならない臭いについては、これまで何度も書いたことがある(別稿「報われない努力」、「『ガン再発』への決断と精神論」、「諦めることの意味」、「挫折の意味するもの」、雑記帳始末記1、No10「サクセスストーリーの影で」などなど参照)。その臭いの背景にあるのは、「成功した」という結果が先にあって、その成功の事実に対してどんな理屈でも後付で簡単につけることができることにあるからなのだろう。「成功」という事実には、あたかもそれ自身が磁石か接着剤でもあるかのように、どんなものも引き寄せ貼り付けてしまうような奇妙な力を持っている。

 そしてその力は、ある一つの経過が成功に本当寄与したかどうかを問わないのである。まるっきり無関係な事実であったとしても、成功した当人が「こんな不幸が私に力を与えてくれた」とか、「こんな試練が私の成功の架け橋になった」と一言添えるだけで、あたかもそのことがサクセスストーリーを構成する重要な要素になってしまうのである。そして、そのストーリーの構成要素に私たちはまるで反論できないのである。

 恐らく成功した者が失敗した者に比べて少数であろうことは、常識的に分る。ましてやその成功譚を多くの他者に語れる機会を持つ者は更に少数であろう。世の中には、努力しても報われなかった者、挫折したまま立ち上がれなかった者、悲嘆の中に生涯を終えざるを得なかった者などなど、失敗の中に閉じ込められた人生を送った者は数多く存在するだろう。

 もちろん成功した者もいる。成功の定義をどう捉えるかは難しいとは思うけれど、人によっては億万長者になることであり、またある者にとってはノーベル賞や芥川賞などの名誉を意味するのかも知れない。ただ、言えることは、私たちが常識的に理解している成功とは、少なくとも内容的に多数の他者からの賞賛を含んでいるある種の結果を意味していることは間違いないだろう。

 小さな成功だって、成功だろうとは思う。プラモデルを完成できたことだって、少なくとも本人にとって見れば成功であろう。地方のマラソン大会で完走できたことだって成功だとも思う。でも、そういう人たちに成功譚を語るような機会が与えられることはない。本人にとっての小さな成功は、それがどれだけ本人に満足を与えようと「自己満足」の中に押し込められ、サクセスストーリーとして世の中に承認されることはない。

 だから「成功」は、結果として多数の者から成功として承認され、しかもその経過は本人にしか分らない内容を数多く含んでいる。それが「成功」の持つ大きな特徴である。

 だから「成功譚」は、本人の独壇場である。「成功」という結果が、誰からも承認されるような形で目の前にある以上、その「成功」そのものを否定することは誰にもできない。と言うことは「何を言ってもいい」という形式を持っているのが「成功譚」の特質になる。

 オリンピックで金メダルをとることが「成功」だとは必ずしも思わないけれど、多くの人がその結果を賞賛することだろうし、「努力して勝ち得た成功」として承認するだろう。そして「成功へのストーリー」が始まる。

 結婚に失敗して、悲嘆の中から再起を誓ったこと。イジメを受けて奮起したこと。一冊の本に手会えたこと。一人の宗教者の話を聞いたこと。山に登ったこと。友達に裏切られたこと。お金を落としたこと。テレビドラマや映画に啓発されたこと。眠りに着いたウトウトの中で突然気づいたことなどなど、どんなことも「成功している」という結果の前には誰にも否定はできない。

 そしてまた、否定する必要もないのである。「あっ、そー」としか言いようがないのである。仮に否定し否定を証明できたところで、「成功」の事実は結果として変わらないからである。

 だから「サクセスストーリー」は臭いのである。言い放題、語り放題だからである。だからそのストーリーは、他者にとって何の役にも立たないのである。単なる「あっ、そー」でしかないからである。だから私は、こうしたサクセスストーリーが大嫌いなのである。成功譚を語る者の独壇場であり、それは聞く者に対する身勝手な押し付けにしかなっていないからである。


                                     2014.4.18    佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ



サクセスストーリー