前回まで一ヶ月をかけて、人が人を殺すのはそうした行動パターンが遺伝子として私たちの中に組み込まれているからなのではないかと書き(別稿「殺し合いの遺伝子(1) (2) (3) (4)」参照)、更に続けて地球生物は全種が絶滅に向かっているのでないかとも書いた(別稿「DNAと生物」参照)

 書きながら、最近は動物の進化というテーマに私がはまっていたような気がしてきた。今回もどちらかというとそうしたテーマの続きになってしまった。ただし、絶滅というような物騒な話ではなく、生き延びる術としての進化という側面に興味を持ったことである。

 肉食生物(必ずしもライオンやハイエナと言った獣に特定するわけではなく、単に食事が植物に限定されていない生物という程度の意味である)は他者たる動物の肉を食物にすることで、肉体を構成するたんぱく質を植物から合成するという効率の悪い変換過程を免れる途を選んだ。だからと言って食われる側が食われるままになっていたわけではない。

 食われる側としては足を早くして逃走能力を高めるか、保護色などを利用して敵に見つからないようにすることがとりあえず生き延びるための方法であろう。もっとも足を速くと言っても、必ずしも捕食者から逃れるほど速くなる必要はない。とりあえずは同じく逃亡する仲間よりも少し速く走れるだけで目的を達することができる。なぜなら、足の遅い仲間が捕まってしまえば私は捕食者から逃げ切ることができるからである。まあ捕食されることを見越して多産することも一つの方法ではあろうし、そうした途を選んだ種も多い。それでも多くの種は逃走と隠蔽を捕食者から逃れる主な手段としてきた。

 そんなことを考えているとき、ふと孔雀の羽が気になったのである。こんな考えの対象は別に孔雀だけに限るものではない。気になったのは、鳥でも獣でも昆虫や魚類でも、どちらかというとメスが地味なのに対し、オスは比較的ど派手なファッションを持っていることに対してであった。見かけの派手さだけではなく、ダンスをしたり、きれいな声で囀ったり、光を点滅させて相手に信号を送ったりするなど、ライオンのたてがみなどの外形も含めて、オスには目立つような特徴を持つものが多い。

 その理由として、そうすることでオスはメスから選ばれる機会が多くなり、自らの子孫を残す確率を高めることができるからだと説明されている。そうした説明が分らないというのではない。その目的が求愛のためなどと呼ばれていることからも分る。ただ、「目立つこと」はメスに対しての効果を否定できないものの、同時に敵にも目立つことを意味している。

 孔雀の羽に戻ろう。あんなにも長く立派な尾というか羽を持つことは、考えてみるととても危険である。孔雀の飛翔能力について良くは知らないけれど、あの立派な羽がその立派なぶんだけ飛行能力に寄与しているとはとても思えない。豪華な羽はむしろ不便であり、遠く高く飛ぶことを妨げ、捕食者から逃げ切ることに役立っているとは思えないのである。

 もしかしたら、あれだけの豪華な羽を持つオスは、その豪華さゆえに恐らく飛べないのではないか、仮に飛べたとしても数メートルのしかも低い高度がやっとではないかとすら思うのである。豪華な羽が仮にメスに向けたアピールだとしても、同時に捕食者にも自分の存在を誇示していることを意味している。あれほどの羽を見せびらかすということは、そのまま捕食者に向かって「私はここにいるよ、掴まえてください」とアピールしているのと同じである。目立つ羽の役割に、保護色としての効用を認めるようなことはとてもできそうにない。

 万が一捕食者に見つかって自らが餌食になってしまったら、「メスの気に入られて自らの子孫を残す」という目論見は微塵と消えてしまうことになる。しかも孔雀に捕食者を迎え撃って勝てるような攻撃力が備わっているとは思いにくい。防御の能力がなく、しかも目立つような行動をとる種は、少なくとも一般的には生き残れないように私には思える。

 そうなると孔雀は種として生き残ることはできず、絶滅への途をまっしぐらに辿るということになる。しかし現実は孔雀は種として現代まで立派に生き延びている。このことは孔雀には無警戒とも思えるような行動や外見を凌ぐ、別の生き残りの手段が備わっているということである。

 果たしてそれが何なのか、私にはきちんと説明できない。例えば捕食者のいない環境を選んで生活圏としているのか、それとも捕食者の近づく気配を事前に察知できる何らかの能力が備わっているのか、それとも捕食者が苦手でかつ自らは攻撃されることのない生物の近くに共棲する途を選択しているのか、まるで分らない。

 自らの肉を捕食者の嗜好に合わないような味に変化させることや、有毒な肉体を持つことも生き延びるチャンスを増やすことに結びつくだろう。だがそれは餌として適さないことを意味しているから、「孔雀の捕食者」の存在そのものを否定することになってしまう。つまり孔雀に捕食者がいるという前提で始めたこの話そのものと矛盾することになってしまのでここでは取り上げないことにする。

 孔雀は種として現に繁栄している。どの程度の繁栄なのかは分らないけれど、各地の動物園で羽を広げたあの目玉模様が人気を集めているところを見ると、世界中に拡大しているのだろう。

 目立つ模様を持つ羽は、目玉模様で捕食者を驚かす効果があるのかもしれない。でも驚きはやがて馴れにつながってしまうだろうから、そうした効果が何代も持続するとは考えにくい。ただ、そうした派手さの誇示が生存に危険であるにも関わらず、孔雀は種として生存し続けていることは事実として承認しなければならないだろう。

 そうした事実を考えてみると、「危険にも関わらず生き延びている」ということは、一つの能力であると理解できてくる。つまり「危険を避けて地味に生きている孔雀のオス」よりも、派手さをアピールするオスのほうが「私は健康で元気で危険回避の能力がある」ことを実証しているということである。もちろんそうした実行をしたところで、捕食者に襲われてその命が途切れてしまったらそれまでのことである。だが「生き延びている」ことを実証できるのだから、そうした事実はメスに対する有力なアピールとなるだろう。

 そしてこれを更に追求していくと、こうしたアピールはメスのみならず捕食者に対しても有効なのではないか思えるような気がしてくる。つまり、逃げ切れるのかそれとも逆に攻撃に転じるのか、どんな手段で捕食者をかわしているのか分らないけれど、目玉模様のど派手な孔雀のオスは捕食者に狙われる危険が多いにもかかわらず世代を超えて生き延びてきたことは事実である。そうした事実は、捕食者に対しても「私を追いかけても無駄、捕まることはない、お前の餌にはならない」とのメッセージを送っていることになると思うからである。

 こうして考えると、孔雀の羽の豪華さは、見かけ上は個体の生存の可能性を減らすような進化に見えるにも関わらず、その実態は捕食者をかわす機能との裏返しなのかもしれない。その具体的な手段を見つけられないのは残念だけれど、豪華さの裏に生き残りに有利に働いている機能が隠されているであろうことが分ってくる。

 ピーコック(孔雀の英名)スタイルという言葉がかつて流行した時代を私は経験している。若い男が美しいファッションに身を固める風潮を示していた。美しく装う男性を強調する言葉だったような気がしている。だが、こうして考えてみると孔雀のオスのど派手の実質は、単に美しさを強調してメスの気を引くことだけにあったのではないと分ってくる。

 それはメスに対しても、また捕食者に対しても、「私は生き残るにふさわしい能力を持っている」ことのサインであり、その能力を羽に目玉模様を描きそしてそのことをこれ見よがしに広げることでアピールしているのである。そして孔雀はそのアピール通りに、今でも種として繁栄しているのである。

 恐らく地味に変化した孔雀のオスもいたことだろう。どちらが生き残れるのか、そこには種としての熾烈な進化の戦いがあったのだと思う。その中で豪華で目立つ羽を持つという危険な進化を選んだ種が、結局は生き残りゲームに勝利したのである。メスもまた、そうしたオスが健康で生き残りの遺伝子を持つものとして承認したということなのであろう。


                                     2016.11.11    佐々木利夫


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孔雀の羽