「国破れて」は戦争を意味しているのだろうから、身勝手な解釈を許してもらえるならタイトルの意味は、「戦いによって人が死に歴史や文明が消えてしまっても、自然は変わることなく私たちの目の前に生き残っている」ことを言いたかったのだろう。この言葉を私はどこで覚えたのだろうか。これは杜甫が作ったあまりにも有名な漢詩「春望」の冒頭の一句である。だから読書やテレビや映画など、色々な機会にこの言葉に触れたであろうことは否定できない。でも私はこの漢詩について、冒頭の一行はおろか二句目以降最後の行の「すべて簪(しん)に絶えざらんと欲す」にいたるまでの全文を暗記できていることに気づいたのである。恐らく中学か高校で暗唱させられたことによるものだろう。

 それはともかく、私たちは自然を変化しないものとしてとらえてきた。ふるさとの山や川はいつまでも同じ姿で、傷つき荒んだ人々にどんな時も優しく接し、疲れた心を癒してくれるものだと信じてきた。生老病死のすべてを飲み込んでなお自然は永劫に続くのだと、人はどこかでそうした思いにすがりつきたかったのかも知れない。

 でも現実はそうした思いとは裏腹であった。私が実感としてそのことを知ったのは、10数年前にふるさと夕張を訪ねた時であった。人口20万になろうとする時代の空気を直接吸ってきたこの身にとって、世界のエネルギー革命に飲み込まれ石炭が生活の中からほとんど消えてしまっている現実は、現在の人口が1万人を切ろうとしている姿の中にあからさまに感じることができた。こうした町の衰退は、学校や商店の消滅と草ぼうぼうの荒地、鉄路の消滅、洗炭で黒いのが当たり前だった川の透明な川への変化(別稿「黒い川の流れ」参照)などなど、自然の姿そのものの変化にあからさまにつながっていた。

 いやいやそうした解釈は違っているかも知れない。山と山に挟まれた奥まった谷底地帯には、最初は恐らく誰も住んでなどいなかっただろう。それが石炭の発見とともに20万もの人が押し寄せ、石炭産業は川を真っ黒に変え、山の斜面を切り崩して住宅を建てたのだろうからである。このときに私たちは自然を自分の都合のいいように変えてしまったのである。

 また最近ワープロで打ち直して発表している40年前の沖縄旅日記の中に、あの沖縄戦で「戦火のため、山も川も、自然それ自体が破壊され、山や川の形が変わった」とのバスガイドの言葉があった(沖縄旅日記むかしむかし(10)参照)ことも、人は自然を破壊できることを示す後押しとして機能した。

 そして私はあらゆる文明が人間自らの力で自然を破壊していっていることに改めて気づかされたのである。私たちは進化の過程を学ぶ中で、自然淘汰という考えを教えられてきた。聖書は世界の始まりを神が「光あれ」(旧約聖書、創世記)から始まったと説いた。そして人は長い間それを事実として信じることの中に我が身を置いてきた。17世紀、英国国教会が採用した公式見解によれば、聖書の記述から地球の始まり、つまり神による天地創造は紀元前4004年(つまり今から約6000年ほど前)の10月18日火曜日であるとし、アダムとイヴの誕生はそれから6日目の10月23日だとしたそうである(アナザー人類興亡史P26、金子隆一著、技術評論社)。

 こうした考えは相次ぐ化石の発見などで、6000年を遥かに超える数万年、数百万年、数億年の単位で否定されてきたが、その中で私たちは自然淘汰が現在の生物圏を形作っていることを教わってきた。自然淘汰とは何か、それこそ生物は自然の変化に順応することで生き延びてきたこと、そして自然が変化していくならその変化に順応して生物もまた変化していくことを示していた。自然もまた地球全部が凍結するような全球凍結(別稿「地球の悲鳴」、「誰のための地球?」、「冬眠する太陽」参照)や、地球内部からのマントル対流による大陸の移動(別稿「動く大地」参照)、更には隕石の衝突などに襲われ、その中で生物は自然淘汰を通じて絶滅の危機を免れてきたと教えられてきた。
 私たちが現在まで生き残り多くの生物が繁栄している背景には、「変化する自然に順応する種の保存」みたいな考えが基本にあったはずである。

 しかし人間だけは違ったような気がする。あらゆる生物が環境に対応することで生き延びてきたのに対し、人間だけは環境に順応するのではなく、環境を変えることで生き延びようとしてきたように思えるからである。ミトコンドリア・イヴの仮説がどこまで正しいのか私には分からないが、現在生き延びている世界中の種のなかで、どんなカップルからも子孫が作れるのは人類だけだと聞いたことがあるから、もしかしたらこの仮説は正しいのかも知れない。

 ミトコンドリアとは細胞内に数十万も含まれているといわれるエネルギー生産物質で独特のDNAを持っており、その遺伝子は母からのものだけが変化することなく伝えられるといわれている。これを世界中の人類について調査したところ、なんと数十万年前の単一の女性にたどりついたというのであり、この結果から現在の生きている人類(私もあなたも、アフリカ人もアメリカ人、エスキモーもアイヌも全部である)の祖先は単一の女性、つまりミトコンドリア・イヴに帰属すると推定されるのである。

 この仮説によると人類はねずみのような生物から猿のような生物へと様々に分化しながら種を異にして世界に広がってきたが、少なくとも人類に関しては我々の祖先とされているホモ・サヒピエンス以外の全部の種が絶滅したとされるのである。私たちは中学や高校で、例えばクロマニヨン人であるとか、北京原人、ジャワ原人などの多くの人類の祖先の名(化石の名と言うべきか)を学んできたが、それらはすべて現在生きている人類つまり私たち、の祖先ではなく途中で絶滅してしまった種なのだという。

 その単一の種である人類がいま、生き残るための地球環境を破壊しようとしている。地球は別に人類のために存在しているわけではない。地球の歴史を24時間で表すと、陸上の生物は22時に現れ恐竜は23時を過ぎて現れて40分後に絶滅し、人類は24時の2秒前に登場したのだという。また地球の存在を120億年として12時間時計で表すと。現在は4時半であり、複雑な生物は4時に出現し5時までしか生きられないのだそうである。そして人類の時代はこの複雑な生物が生きられる1時間の中の1000分の1秒にしか過ぎないのだとも言われている(テレビ放映、スーパーコンチネント 2億5千万年後の地球、国際共同制作・NHK・NHNZ・ニュージーランドから)。

 地球にとっては例外的な存在ともいえる人類が現在、自らの生存を否定しようとしている。隕石の衝突や太陽の爆発、他の銀河や宇宙からの侵略や超新星爆発による電磁波の影響、最近主張されている太陽系がスパイラルアーム(銀河の渦の腕)を通過することによる気候変動などなど、まさにSFめいた話も含めると数万年数十万年単位で地球の未来がどうなるかは恐らく誰にも分からないだろう。そうした中で人類の未来など、うたかたのごとき存在であることに疑問はない。
 それでも目の前の数十年の単位で、人類は自らの住む地球を人類はおろか生物の住めない環境に変化させようとしている。恐らくそんな変化など地球は歯牙にもかけないだろう。生命の存在が宇宙の必然なのか、それとも地球だけに訪れた偶然の奇跡なのか、そんなことはこの際問題ではない。私たちは自然淘汰のしきたりを否定した地上で唯一の生物になった。それはもちろん水中を泳ぐことも、空を飛ぶことも、牙を持つことすらもできなかったひ弱い裸の種としての、やむを得ない選択であったかも知れない。

 人はいつか順応ではなく、自然を改造することで種の保存を全うしようとした。山を穿ち、切り崩し、海を埋め、そうすることが生き延びることなのだと思い込んだ。しかも僅か数千年の間にである。直立歩行で両手が空いたことから人は道具を利用するようになったと言われている。だが石で硬い実を砕くことは猿やカラスだってやっている。くわえた棒を使って虫を穴からほじくり出す鳥のいることも分かってきた。道具の発明や利用は、決して人類固有のものではなかったはずである。

 どこかで人は一線を超えた。文字とか言葉あるいは文明とか文化などと名づけていいのかも知れないけれど、人だけが種としての動物の一線をどこかで超えてしまった。資源の枯渇、絶滅危惧種、地球温暖化、森林の減少、砂漠化、気候変動、北極の氷の減少、オゾンホール、そして戦争や殺人や自殺などなど、それぞれがどんな風に結びついているのか私にはきちんと説明ができないけれど、人が今ある地球を壊そうとしていることだけは理解できる。

 「国破れて山河あり」はせいぜい我々が生きていた幼い頃のふるさと回帰への思いであり、しかもその「ふるさと」とは人類が文明を作り上げた時代における単なる造語であるかも知れない。だからそんな自然観に対して「地球の歴史」なんぞという壮大な時間を対比させるのはとんでもない間違いになってしまうかも知れない。
 それでも私は最近見た映画での一言「ふるさとは変わらないと思うのは幻想だ」(「アトランティスの心」から)が、どこか心に引っかかって仕方がないのである。そして、そう思わせる原点には「人類の存在」そのものが抜けがたく立ちふさがっている。しかも、もしかしたら人類の存在そのもの、つまり人類の発生、更には地球における生命の発祥そのものが、地球汚染の原因としてその根底に横たわっているのかも知れないなどと思ってしまうからである。


                                     2012.9.13     佐々木利夫


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