スマートフォン(スマホ)の普及が日本だけでも数千万台と言われている。携帯電話(携帯)を手放してから10数年経っている私なので、実を言うとスマホが携帯電話とどこがどう違うのか、必ずしも十分理解しているわけではない。せいぜいが「パソコンに近づいた携帯」程度の認識である。

 私の携帯に対する認識は、これまで「私の携帯異聞」、「携帯お化け屋敷」、「右腕のない女たち」、「減ってきた私の居場所」、「真冬に幽霊を見た」、「携帯に支配される社会」などでも書いている通り、どちらかと言うとネガティブな捉え方が多い。近頃は「携帯依存症」などという言葉が巷間を賑わしていて、街中の誰も彼もが列車、道路、自転車、喫茶店など所構わず小さな画面を眺めている姿を見ていると、どこか「ふん」とばかりにいささか小馬鹿にしたような感じがしないでもない。

 こうした携帯依存症と言われるような生活スタイルは、どちらかと言うと子供から若者にかけての世代に多いようである。したがって私の携帯に対するネガティブな印象も、そうした世代に向けた意識につながり、つまるところ「今時の若者は・・・」みたいな評価につながることになる。それは言ってみるなら、「携帯なしに夜も日も明けないような生活スタイル」に対する批判であり、「若い者がそんなことでどうする、もっとしっかり自分の人生を考えて、勉強や仕事に精を出せ」と言った感触でもある。そうしたイメージに、「携帯依存症」という言葉が更にマイナス評価を加算することになる。つまり携帯依存とは精神的ではあろうが、一種の病気になっているのではないかとの思いでもある。

 でも本当にそうなのだろうかと、ふとこの頃考えるようになった。「依存症」などと「症」の字がついているので、どうしても私たちは病気を連想してしまうけれど、「覚せい剤依存」とか「アルコール依存」というのとは明らかに違っている。もちろん携帯に注意が集中し過ぎて、周囲に気が回らないという弊害がないではない。歩行者とぶつかったり、電車のホームで落ちかけたり、場合によっては自動車の運転がおろそかになってしまうなどの弊害が出ていることは事実である。

 また、スマホになるとインターネットとの接続が自由なので、これもまた「ネット依存」などという新たな症状が取りざたされている。

 そうした弊害を防止するため、使い方のルールを学校や職場などの内部で決めたり、時には法律や条令で規制しようとする動きがある。利用者の自主的な自律に任せるのがいいのか、それとも法的に規制する必要まであるのかは、それぞれ諸説あるだろうけれど、ただ私にしてみれば「依存症」と名づけるほどの問題ではないような気もしている。

 さてここで、携帯(一応スマホも含んでの話しである)と若者の関係である。携帯が依存症と言われるほどにも世の中に普及していると言うことは、それだけ若者にとって魅力のある商品であることを意味している。私の生活圏でしか知る機会がないのだけれど、恐らく若者(どの範囲までを若者と呼ぶのかもよく理解していないのだが)のほとんど全員と言ってもよいほどに携帯は普及しているのではないだろうか。

 そういう意味では、麻薬やアルコールの中毒とはまるで異質である。最近はテレビ離れとも言われているが、テレビだって恐らく日本中の全家庭に普及しているだろうけれど、それが依存症などと言われることはない(かつて「一億総白痴化」と呼ばれた時代はあったけれど)。
 また車だって恐らくかなりの普及率になっているだろうし、洗濯機、冷蔵庫、クーラー、カメラなどなど、日本人のほとんどか所有している商品は、かなりの数になるだろう。そしてその内容は、時代とともに変わってきたのである。

 にもかかわらず携帯だけが、最近とみに批判の的にされているような気がする。しかもそれは、自分では使いこなせない、もしくは利用することにそれほど興味がない世代からの批判であるような気がしてならない。まさに「使いこなせない世代、それほど使いたいと思わない世代からの余計なお世話」としての批判なのである。

 人は自分と異質な分野に対しては、とかく狭隘になりがちである。少し前までは、「漫画」であるとか「テレビゲーム」などがそうであった。多分そうした批判も、自分の興味が失せたか無くしてしまった世代、もしくは自分の手に負えなくなった世代である親を中心とした拒否反応であるように思える。

 私にはそうした批判が、本当に若者の将来を思っての行動とはどうしても思えないのである。恐らく批判をまとめると、「携帯にばっかり関わりあっていないで、少しは勉強しろ」みたいな意見に集約できるのではないだろうか。つまり携帯に費やす時間を勉強などに使わないと、「ろくな大人にならないぞ」、「あなた自身がいずれ苦労するぞ」という接尾語がついてくるように思える。そしてもっと大げさに言うなら、「日本の将来を担うのはあなたたちなのだから、今からしっかりしてもらわないと困る」とまで続きそうな気がする。

 まさに「余計なお世話」である。当の本人が携帯でブログやメールやラインやフェイスブックなどを楽しんでいるのだとしたら、そして仮にそれらに夜も日もないほどのめりこんでいるとしても、それはそれでいいではないだろうかと思うのである。日本の将来がどうなろうと、その人たちが支えてくれるかも知れない年金や医療が破壊されようと、それで困るのはもう携帯に依存しなくなっている年寄りだからである。つまり、年寄りが「私のためにお前たちが頑張ってくれ」と言っているのと同じように思えるからである。

 だから私には、「若い者のことを思って言っているのだ」と言う論理が、どうしても言っている老人本人の自分の利益のための理屈になっているようにしか思えないのである。今の若者が年金制度を壊してしまったとしても、その結果今となっては年金を受け取るだけで何一つ社会に貢献していない老人が困ったことになったとしても、それを若者に文句を言う筋合いではないだろう。ましてや、「将来のあなたたちが困るからだ」なんて言い草は、余計なお世話である。

 老人に言わせるなら、「お前たちは、私たちが額に汗して作り上げてきた我が家や公共物や道路や健康保険制度などに依存して生きているじゃないか。だから、少しは感謝して私どもの面倒を見ろ」と言いたいかも知れない。だがそれとても結果論である。私はいま老人だが、私は働き盛りの時代に後の世代の利便を考えて橋やダムを作ってきたわけではない。自分たちの利便のために税金を納め、社会を構築してきたはずである。

 もちろん、その時に「後世代の若者も継続して負担してくれることによって、さらに私の年金が安定する」と考えて、そうしたシステムを作ったかも知れない。だがそれはその時の私たちの身勝手な思いであり、そうした思いに今の若者が従わなければならない理屈なんぞあるはずはない。

 今の若者は携帯が楽しいのである。国民年金を払うよりも、仲間と居酒屋やカラオケで騒ぐのが楽しいのである。若者の車離れで日本経済が低迷しているというが、それは政府はそう思っているだけで、若者は別に車がなくたって不自由することはないと思っているのだから、無理してローンを組むこともないだろう。
 老人は、「私たちは企業戦士と呼ばれ、残業に追われ日曜休日などなくして日本の経済発展のために日夜働いてきた」と言うかも知れないが、それを今の若者に対する説得にはならないだろう。それに私たちだって、マイカーやテレビゲームや湘南の海水浴などにそれなりうつつを抜かしていたはずだからである。

 そんな私たちが楽しんだ様々よりももっと楽しい携帯が発明されたからと言って、そしてその携帯を私たちが若者のように縦横に楽しめないからと言って、自分の利益の侵害を恐れるあまり、そのことに「日本の将来の不安」みたいなおまけをつけてまで携帯の利用を批判するのは、老人の身勝手な我がままそのものであるような気がしてならない。

 「万が一」の時が来るかも知れない。それは万が一ではなく確実に来るだろう。若者だっていずれ若者でなくなる時が来る。今は友達と居酒屋に行ったり、お洒落なレストランでワインを飲んだり、カラオケの方が楽しいと思っていたとしても、結婚したい、子供が欲しい、病気になった、我が家が欲しい、働くのが少しずつつらくなってきた、などがやがてその身に起きてくるだろう。その時になって、貯金がない、保険制度への加入もない、仕事も安定していないと言っても、手遅れである。

 でもそのことと、今の幸せと比べることが悪いことだとは思えない。今の時代、先がまるで不透明である。終身雇用は破壊され、非正規雇用が蔓延している。そんな世の中だから、先憂後楽が保証される時代ではなくなってしまっている。いまカラオケを止めて国民年金を払ったとしても、将来確実にその年金が受け取れるという保証はどこにもない。しかも、カラオケを楽しめるのは、若い今の内だけかも知れないではないか。だから私は、今の若者は今のままで十分に幸せなのだと感じているし、「もっとまじめに働け」などと決して思っていないのである。


                                     2013.8.10     佐々木利夫


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携帯と若者の不幸