依存体質が日本人の中へと余りにも広まってきているのではないかとの危機みたいな感じについてはこれまでにもけっこう書いてきた(別稿「介護とバイキング」、「老いの偏り」、「優しいってなんだろう」、「なんでもかんでもお巡りさん」、「保育所の民営化反対」、「変貌するくれない族」、「はらぺこおなべ」などなど)。
 たが最近そうした傾向はもっと根深いところにあり、単なる体質などと言う生やさしを超えて発病にまで至っているのではないかと思えてきている。

 依存はそれを支える体制なりシステムが先行する。それを支えるシステムがない時には、そうした依存は単なる要望とか要求にしか過ぎなくなってしまうからである。

 そうした傾向の身近な例の一つに私は歩道を通る自転車に見る。自転車は道路交通法に言う軽車両である。単に見かけ上の二輪によって走行するという形態論だけではなく、事実として軽自動車やトラックまでをも含むいわゆる自動車として法定されているのである。だから自転車は車道を通行しなければならないのである。

 だがトラックや乗用車と同じように道路を通行させるには自転車はあまりにもか弱すぎる。現に交通事故の被害も多発している。車道における自転車は事実上の交通弱者である。これを保護するためにどうするか。一つの案として歩道の通行を認めることとした(1973『昭53』、道路交通法改正)。

 さてここで自転車は、車両でありながら歩道も通行できるという、一種こうもりみたいな存在として位置づけられた。それからである、自転車は歩道を我が物顔に通行しはじめたのである。
 自転車の歩道通行はその歩道が自転車通行可として承認され、その旨の表示のある歩道に限って走行が認められている(交通の方法に関する教則第三章第二節1(1)(2)、昭和53年国家公安委員会告示第3号)。ただそれも横断歩道の乗車したままでの通行までは認めていない。

 にもかかわらず自転車は制限つきの歩道通行を認められたとたんに、全歩道、全横断歩道の通行権が得られたと錯覚したのである。それはやがて錯覚を超えて当然の権利にまでのし上がった。だから自転車はすべての歩道、そしてすべての車道、つまり道路の全部にまでその通行する万能の権能を事実上得たのである。

 そのはっきりとした事例を、前を歩く通行人に警笛を鳴らしながら追い抜いていくたくさんの自転車に見ることができる。それはまさに「そこのけ、そこのけ、お馬が通る」の意識そのものである。自転車は歩行者の邪魔にならないように通行しなければならないとされているにもかかわらずにである。

 ところでこうした傍若無人な自転車に対する批判は歩行者にも同じような対立感情を生むことになった。歩道は自転車のためのものではないと分かり、それは法的にも保証されているのだと分かったとたんに、歩行者もまたそれを権利として主張し始めた。新聞などへの投書、交番や市町村などへの苦情が殺到し、時に自転車締め出しなどの通行規制を要求することになる。

 それは例えば歩行者用の青信号が点滅し始め間もなく自動車用も黄色に変わるだろうと気づいたとたんに、青信号中は我が権利とばかりに一層スピードを上げて通過しようとする乗用車のようなものである。権利に法的な背景を必要とし、だからこそその法律によって権利が守られることは理解できる。だからと言って権利の濫用もまた誤りだと法律自体が警告しているではないか(民法第1条3項)。

 そして当然に、錯覚が含まれているにしろ通行が認められていると信じる自転車側の権利と自転車通行といえども歩行者が絶対的に優先するはずだという歩行者の権利がぶつかり合うことになる。権利は守られるべきものだからであり、現に守られるべく法整備ができているはずだからである。

 そうした依存から権利への傾向はどんどん強まっている。つい先日の朝日新聞の「私の視点」と題する識者の投稿にこんなのがあった。

 「私は聴覚障害者です。・・・・・、政治家も経営者も年を取れば、目、耳、足などに不便を感じるはずだ。高齢者障害者に配慮した設計・デザインは、他ならぬ自分の問題でもあるという意識を持ち、バリアフリー化を推進することが肝心だと思う」(朝日新聞07.09.20)。

 これが投稿者の末尾一行を除く結論である。この意見は私にとっても何の異論もない。だがこれに続く最後の一行はこんな文言であった。

 「聴覚障害者の立場を一刻も早く政策の中に盛り込んでいただきたい。」

 私はこの最後の行を読んで、それまでに書かれていた投稿者の熱い思いが一瞬で醒めてしまったのである。聴覚障害者の存在が例えばまるで知る人のないような特殊な難病患者のように障害者として社会的に認知されていないと言うのならばこの意見は良く分かる。だが聴覚障害は恐らく目の不自由な人とも、あるいは手足や精神的な障害などとも同様に障害者として誰もが理解しているはずの障害である。
 にもかかわらずこの投稿者は前段で高齢者や障害者全体にバリアフリーの必要性を説きながら、結果的に聴覚障害者のみに対する政府の援助を求めているからである。

 つい先日の参院選挙で自民党が敗退して与野党の勢力が逆転した。そのことに危機感を抱いた政府なり自民党の思惑もあるのだろうが、またぞろバラマキ予算の匂いが強まってきている。
 06年4月施行の障害者自立支援法で設けられた障害者の福祉利用1割負担も廃止の方向へと動き出し、70歳以上の高齢者の健康保険負担も延期の様相が高くなってきている。

 バラマキは当面それを受ける者にとっては一つの利益ではある。だが哲学なきバラマキは単なる無駄遣いになりかねない。しかも国も地方も膨大な国債・地方債を抱えている現実の上でのバラマキは避けられない財政破綻への一里塚にもなりかねない。

 福祉を中心としたバラマキが、これほどにも多額になった国や地方の借金の元凶なのだと政治家もそして国民も知っているはずである。それでも他者の負担で自分が楽になろうとする依存体質はなくなることはない。そしてそれによって勢力拡大を図ろうとする政治家の存在もである。

 日本は法治国家である。それは権利と義務を法律で割り切るという意味であり、逆に言うなら法律なくして権利も義務もないということでもある。

 いつのことだったか忘れてしまったが、テレビで落語家が「傘かしげ」の話をしていた。江戸仕草と呼ばれている動作の一つで、雨降りに狭い路地などで向かい合って通る人が相手とすれ違うときに、持っている傘を少し外側に傾けて滴が互いにかからぬようにする気遣いのことだそうである。
 このほかにも雨でなくても向いから人が来たときに少し身を引いて道を譲る「肩引き」、寄席や芝居小屋などで席が混んできたら少し腰を寄せて詰める「腰浮かし」など、そんなうるおいのある生活が確かに日本にはあったのである。

 右側通行も赤信号も、優先道路標識も一時停止もなかった時代の自然に発生した互いの了解である。そうしたうるおいのある生活を日本人はいつから忘れてしまったのだろうか。依存し主張することに汲々とする生活が、いつの間にか権利や義務を背景に持つようになり、それは時に「切れる」ことにもつながっていっているのではないかとも思うのである。

 そしてこっちの方が気になるのだが、依存は常に「誰かが何とかしてくれる」につながっていくことであり、そうした意識とは裏腹に、世の中「自分でやらなけりゃどうにもならない」のが当たり前だとも思うからでもである。そうした自立する気概みたいな心意気を、この依存体質はどんどんと削っていっている。

 だが希望のないわけではない。今日(9.28)のNHK教育テレビで「いらなくなったルール」という番組を見た。小学生向けの道徳番組みたいだったが、300人のマンションでのトラブル解決を巡る話であった。ゴミ出しのマナー、ペットの飼育、ピアノや足音やフローリングなどの騒音、自転車泥棒などなど、個々人の利害や常識と常識がまともにぶつかリあう中で、細かいルール作りでは対応できないと判断した管理組合の模索である。ひとつの解決が見つかった。住民同士の近所づきあいを深めていくことで作ってきた規則やルールの出番がなくなったというのである。

 これが理想的な解決になるのかどうかは必ずしも分からないけれど、飼育を許可するペットの体重や身長にまで議論が及び、それでも果たせなかったトラブル解決への一つの道筋がここにはある。江戸仕草や向こう三軒両隣の付き合いの中に、権利・義務を離れたこれからの生き方の一つを見ることができるのではないだろうか。



                            2007.9.28    佐々木利夫


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変化する依存