自分探しについては何度も何度もここに書いたことがある(別稿「天職と自分探し」、「再び『自分探』について」、「自分探し再び」、「無差別殺人と自殺願望」、「もう一つの自分探し」、「めんどうくさい」、「増殖する他責」など参照)。これから書こうとすることも、そうした過去の内容を超えるものではない。それはそうなんだが現代の若者が主張している「自分探し」と言う言葉からは、その道は他者から与えられるものであるとの意識が強く、「自らが努力して探す」という努力への思いがどこか欠けているような気がしてならないのである。

 「人生の中に自分にふさわしい位置を見つける」ことは、言葉として非常に心地よい響きを持っている。その中では自分が認められ、報われ、賞賛される、そんな居場所を指しているからである。それは言葉を代えるなら人が望む人生の目的そのものだと言っていいかも知れない。だがそれは自らの努力で形作っていくものであって、決して与えられるものではないと私は頑なに思っているのである。

 これはつい先日の新聞に載った特集記事からの引用である。

 「・・・高校生生活を終え、電気部品会社の正社員になった。が半年で退職した。組織に頼らず、自分の力で生きたい。組織に入ると自分がなくなってしまう。・・・その後も、会社を転々としたが、どれも長くは続かなかった。都会で自作のアクセサリーを販売したり郊外で農業をしたり・・・。定まらない自分が待っていた。還暦が近くなり、ふと思う。(こんな中途半端な考えさえしていなければ今頃は)会社員になって、そろそろ定年後の生活設計を始めていたころだったかと。現実は貯金はほとんどなく、年金ももらえない厳しい生活が待っている・・・。」(’09.9.6 朝日新聞、特集「砂時計」より)。

 彼は還暦が近い年齢であり、若者とは違う。だが私は彼の言うこうした思いを若者自身が今から理解しておいて欲しいと思うのである。彼の言う「組織に入ると自分がなくなってしまう・・・」との思いを否定したいとは思わない。組織の一員になるということは歯車の一つになることとある意味同義だからでもある。組織に入ることの中に、時に自分を抑え、時に我慢し、時に理不尽に耐える、そうした一面のあることを否定するつもりはない。

 だが組織の一員になるということは、自らの主張のすべてを理不尽の中へと人生もろとも埋没させてしまうことを意味しているのではない。「耐える」ことや「我慢」すること、「認められない」ことは、見かけ上「私の思いが通らない」かのような外形を持っている。だがそうした思いは不遜と言うものである。耐えるとは自分以外の意見にも耳を傾けると言うことであり、我慢とは自分の中にない意見、気づかなかった思いを自らの中で反芻し新しい意見を再発見することでもあるからである。

 組織は決して上位下達のみで成立しているのではない。そんな組織はやがて自滅していくからである。「正論と思える意見」が時に通じないことだってあるだろう。だがそれは自分が思い込んでいる「正論」でしかないことだって多い。もしそれでもなお正論と思えるなら、どうすればそうした自らの思いを組織の中に広げていけるかを考えていけばいいのである。
 もちろんことはそう簡単ではない。それは「反対する意見」にも相応の理屈が存在しているからである。そうした反対意見を崩せない背景には、組織における上下の力関係もあるけれど多くは主張しようとする意見に反対意見を抑えるだけの説得力がないからである。

 そうした壁にぶつかって「諦める」のも一つの方法ではある。反対されたとき、または反対されるだろうことが予想されたときに、「どうせこうした意見なんか最初から通じないだろう」と歩みを止めてしまうのも選択肢としては存在する。だがその選択をした時点でその人の「組織に入ると自分がなくなってしまう・・・」の思いは現実のものになってしまうことだろう。

 どうしたらそうした意見への賛同者を増やせるか。賛同者の増加はその意見の強さでもある。どうするか、それには作戦が必要である。100点までいきなり持っていけるような理論武装を新たに見つけるか、それとも小刻みに修正して同調者を増やしていくか、更には反対意見との接点を探っていくか、道はいくつも存在する。
 そして組織の面白さは多様な意見を持つ多数の仲間が居るということにもある。しかも組織はそうした挑戦者を仮に一つの提案では否定したとしても、トータルとしては大切にしようとしている。それなくて組織の発展など望めないからである。だから組織は常に構成員やその意見に注目している。つまり、それは常に他者から見られているということでもある。それは必ずしも上司であるとは限らない。部下かも知れないし同僚かも知れない。場合によってはその組織と係わっている組織外の人かも知れない。組織は多様である。一匹オオカミとして生抜くことを否定はしないけれど、それは他者とのかかわりから逃れようとする姿勢でもあることを自覚すべきである。

 組織に従属することで自分を見失ってしまうと考えたからと言って、そのことが間違いだとは言えないだろう。ただ、組織の中での自分の位置を探そうとする努力なしに、「組織そのものに従属すること」を観念的に否定してしまうことは間違いではないだろうか。そうした思いは、もしかしたら気楽で気ままな生活をしたいだけの自分に対する言い訳にしか過ぎないのではないだろうか。

 「苦労と努力」は、組織に入ろうが一匹オオカミで自立しようが同じである。「だから私はオオカミを選んだんだ」と人は言うかも知れない。それならそれでいい。ならば泣き言など言わないことだ。冒頭に掲げた引用者の意見のように、還暦に近づき貯金もなく年金もないことを嘆くことではないと思うのである。今ある自分はまさに自己責任の結果だからである。人は自分の人生に対して唯一決定権を持っている。だから、そうした選択の結果を後悔したって構わないけれど、誰か他人に頼るような言い方は決定権の放棄である。称賛だけは自分が受け取り、敗北はすべて他者に背負わせようなどとは考えないことである。

 上記の特集記事が載った数日後に、NHKテレビで就職面接のためにスーツを貸し出しているというNPO法人の活動が伝えられていた。多くの若者が背広やリクルートスーツを持っていないために就職の面接を受けられない状況にあるのだというのである。
 そしてここで取り上げられていた28歳の高卒の男は、正社員として就職→健康害して退職→再就職→人間関係に悩んで退職→フリーター・アルバイト→生活保護→母親と同居し生活を維持→母の入院→生活困窮で再就職希望、の状況にあるのだと言う。そして背広を借りて面接を受けようとしているのである。彼の生活が苦しいことを否定したいのではない。だが彼のこれまでの生活からは、自分の人生に立ち向かっていこうとする努力がまるで見えないような気がしてならないのである。一念発起して親に依存した生活から脱却して就職活動に向かうと考えたのならまだしも、単に母が病気になって生活できなくなったから仕事を探すというあまりにも自立を感じられない態度に、どこか「いいかげんにせい」みたいな気持ちを抱いてしまったのである。そして面接に着ていく服すら借り物だという現実には、苦しさよりはお気楽さみたいな思いさえ抱いてしまった。

 現在の不況で就職先が見つからないでいる若者の苦しさが分からないではない。ただその苦しさは単に「金がない」ことだけに限定された苦しさではないかと思えるのである。だからそんな気持ちで仮に就職できたとしても、少し金が貯まったら彼はまたぞろ「自分探し」と称して新しい旅に出かけてしまうのではないだろうか。私には彼の苦しみはそんな程度の苦しみなのではないかと思えてならないのである。確かにインスタントラーメンすらすすられないような生活の苦しさが理解できないではないけれど、どこかそこに自業自得みたいな甘さが感じられてならないのである。



                                     2009.9.23    佐々木利夫


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