現在に生きる生物のほとんどが、自らの命を有限としその代替として子孫を残す形で種の保存(別の考えをするなら一種の不死)を得たことは間違いがないようである。そのことは現実に不死の生物が存在していることからも理解できることでもある(別稿「発生生物学」参照)。

 それにもかかわらず、もしかしたらそうした思いは人だけに限られるのかも知れないけれど、人は己の不死をどこかで願うようになってきた。それは単純に言うなら「死後もなお生き続けること」への願望と共通しているのかも知れない。

 死後の世界、つまり黄泉の国の存在と、そこからの復帰(甦り、黄泉帰り)については最近もギリシャ神話や日本神話などを例に出して書いたばかりだが(別稿「振り返るな」参照)、「人は必ず死ぬ」ことに理屈では承認しても自らもそうであることに関しては必ずしも納得できないものがあるからなのかも知れない。
 もっとも「不死」に関してはそもそも自己矛盾が内包されている。「不死」とは死なないことである。不死は命の始まりを否定するものではないから、どこかに誕生があったとしても矛盾することはない。不死とは「永遠の命」なのだから仮に始点はあるかも知れないけれど、少なくとも終点の存在はないことを意味している。

 このことは逆に言うと「終点を確かめた」人は一人もいないのであり、むしろ「誰にも確かめられない」のである。理論的には、仮に不死の人物がいたとしてもその事実は有限の命を持つ者には証明することなどできないということである。また更に不死の者が複数存在し共に生き続けることがあったとしても、共にその命には終わりがないのだから、これもまた終点を証明することなど不能ということになってしまう。こんなこと言っちまうと言葉遊びになってしまうかも知れないけれど、永遠の命の証明には永遠の時間が必要になるのであり、永遠の時間とはまさに不可能の証明を求めることでもあるからである。

 それはともかくとして不死は不老概念とも結びついて、いわゆる「不老不死」としてながく人の心に刻み込まれることになった。秦の始皇帝は蓬莱の国に住む不老不死の術を知る仙人を探して連れてくるように部下に命じた。また「胡散臭い」の「胡」は不老長寿の薬でもある(別稿「『胡散臭い』はなし」参照)。日本でも竹取物語のかぐや姫(別稿「かぐや姫」参照)は月へと帰るときに、帝に不死の薬と天の羽衣を渡す。帝はその贈り物を「姫のいないこの世で不老不死を得ても意味がない。日本で一番高い山で焼くように」と命ぜられ、その山はその後「不死の山」(富士山)として永く噴煙をあげることになった(因みに富士山は今でも活火山である)。

 またホメロスの叙事詩「オデッセイ」の物語でも、ギリシャ神話の女神カリュプソ(アトラスの娘)は共に過ごす条件としてオデッセイに永遠の命を与えることを提案する。ギリシャ神話の神々は、ネクタールと呼ぶ生命の酒(不老不死の霊薬)を飲んでいたというから、それを彼に飲ませることを約束したのかも知れない。また、少し考えてみると日本の民話の浦島太郎も、玉手箱を開けた太郎が老人になることの意味は、少なくとも竜宮城で過ごす乙姫との生活は時間が止まっていた(つまり不死の時間だった)ことの裏返しになっているのかも知れない(別稿「浦島太郎」参照)。

 聖書でもエデンの園の中央には二本の大きな木があり一本は永遠の命の実を結び、もう一本は智恵の実を結ぶと言われている(創世記第二章9節)。だが人は蛇にそそのかされて知恵の実を食べ、そのことで永遠の命を失うと共に原罪を背負うことになったのである。

 このように不死は私たちをめぐる民族を超えた共通のテーマになっているようだ。また冥界からの復活も、それ自体が永遠の命を示すものではないにしても、不死に連なる思いがそこにあるように思える。もちろんイエスが復活し、同じくイエスの友人であるラザロが死の4日後にイエスによって蘇生されたことも(新約聖書、ヨハネの福音書第11章25節)、その復活によって現在まで生き続けていることを示すものでないことは承知である。しかし死後にも世界があること、そしてその冥界と現世を行ったり来たりできるとの思いは、少なくとも死が一人の個人にとっての「命の終わり」ではないことを人は信じたかったことによるものであろう。

 また死者の肉体や骨の一部を生き残った者が口にする(食人、骨噛み)ことで、生前に持っていた死者の知恵や能力を引き継ぐことができると信じている民族が存在していること(別稿「死者を送るということ」参照)や、臓器移植に提供者の遺族が死者の命や生前の思いを重ねてしまうことなどにも、人が「命の終わり」を認めたくないとする思いが込められているのかも知れない。

 ともあれ「生老病死」と呼ばれるように老と死は密接不利にある。老いを楽しむにはそれなりの年輪が必要だと書いたことがあるけれど(別稿「手の甲のしわ」参照)、その年輪を不死とは無縁の我が身に重ねつつ残りの人生をゆっくりと味わうことにでもしようか・・・。



                                     2010.7.15    佐々木利夫


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不死への願望