老若男女を問わずに携帯電話が普及し、更に最近スマホと呼ばれる機種の勢力が拡大するようになってからは、その依存症じみた機能が一段と目に付くようになってきている。携帯電話についてはこれまでにも何度も書いたことがあるが(別稿「私の携帯電話異聞」、「携帯お化け屋敷」、「携帯に支配される社会」、「右腕のない女たち」、「真冬に幽霊を見た」、「携帯電話犯人説」、「減っていく私の居場所」参照)、最近の利用のスタイルを見ていると、依存を超えて恐怖にまでつながっているのではないかと思えてくる。

 携帯を手から離さない状況は、日常である。だがその利用のスタイルを見ていると、どうも「利用しいる」ようには見えないことが最初に気になった。この一年ばかり電車で通勤しているが、車内はもちろんホームやエスカレーターやエレベーターでも必ずといってよいほど、いわゆる「携帯を開いている人」はもとより、「携帯を手に持っている人」も多いのは当たり前になってきている。

 そうした人たちの行動を見ていて一つの共通したパターンがあることに気づいた。携帯電話なのだから電話として利用するというのなら、仮に利用が禁止されている電車内で開いたとしても、マナー違反や規則違反はともかくとして、そうすることの意味は分かる。また、電話よりもメール機能が重視されるようになってきているようだから、そのチェックのために画面を確認するというのもそれなり分らないではない。携帯電話とはまさに「いつでも、どこでも」だからである。

 傍観者である私だが、いくら物好きだからといって他人の携帯電話の会話を聞いたり画面を覗き込んだりするわけではない。ただ電話として会話しているかどうかは自ずから分ることだし、いかに自分が携帯電話を保有していないとしても、メールの受信や送信の操作などはパソコンを使ってメールのやりとりをしている身なのでなんとなく分るようになってきている。

 さてこれからの話は通勤途上で感じた携帯電話の利用形態なので、対象者は若者に限られることになる。老人も中年過ぎのおばさんも携帯電話を持つ時代だが、その利用方法のほとんどは「会話」に限られ公衆の面前でメールの送受信をすることはないようだ。そういう意味でこれから書こうとしている「依存」や「恐怖」とは無縁のような感じがしている。

 問題は若者である。携帯を開いていることもあるが、手に持ったまま行動しているので、ほぼ全員が持っているように思える。そうした若者の多くが、携帯電話の開いたり閉じたりをあたかも癖のように繰り返しているのである。しかもその繰り返しが数十秒、場合によっては数秒単位で起こっているのである。

 頻繁にメールが届くのでその都度チェックしている、のではない。とにかく携帯を開く、指で画面を触って何かを探しているような動きをする、指が止まらないまま携帯を閉じる、そして僅かの時間のあと再び携帯を開く、を飽くことなく繰り返しているのである。

 どんな意識でこうした行動をしているのか私には分らない。もしかしたら、恋人から来るであろうメールを待ち焦がれて、もしかしたら着信音が聞こえなかったのかも知れないとの焦りからこうした行動に走っているのなら分らないではない。携帯のない昔から、鳴らない電話の前で待ち焦がれている女心を歌った歌は珍しくないからである。でも携帯を持っている若者の全部がそうした環境にいるとはどうしても思えない。これは携帯の持つ一種の病弊ではないかと思えるほど共通しているからである。

 少なくとも傍観者である私の目からするなら目的もなさそうに携帯の画面を開く。数秒間画面にタッチして、読むとか会話することもなしに閉じる。そこまでは分らないではない。だがこれが繰り返されるのである。手に持ったまま、またはポケットに入れた携帯を、1分も経たないうちにまた開いて何やら操作をしだすのである。そして閉じる。また開く。エレベーターの中だろうが、エスカレーターで移動中だろうがそうした行動は続いていく。

 そうした行動は、心理学で言う強迫症状のようである。携帯電話からは持ち主にしか分らない信号で、24時間中、「体から10センチ以上離すな」、「閉じるないつも開いておけ」との囁き声が発信され続けているかのようである。もちろん、そうした信号が発せられているわけではない。では、こうした強迫行動の原因はどこにあるのだろうか。

 携帯電話がこんなにも普及した背景には、「人と人のつながりへの欲求」があるといわれている。現代の人々は、携帯電話によるメールやツィッターやチャットなどのSNS(ソーシャル・ネットワーク・システム)によって、「私の携帯電話機に私宛の電波が届いている」ことの中に「他者とのつながりの実感」を求めようとしているのだろうか。

 そしてその裏腹なのかも知れないけれど、若者は携帯以外による交流を避けるようになってきている。つまり、対人関係が「肉声による会話」や「互いに触れ合う環境」などから離れていっているのである。仲間数人が集まっているのに、それぞれが勝手に携帯に向っている様子の写真を見たことがある。こんな風景は例えば子供同士が一部屋に集まっていながら、それぞれが勝手に自分のゲーム機に向っているのが当たり前になっている現代では珍しくないのかも知れない。

 だがそんな反面、つながりを望んでいるように見えながらも「面と向うスタイル」としてのつながりからは距離を置こうとしているのかも知れない。そしてそうした対面的な交流が希薄になるぶんだけ、「つながっている数」によって濃度の埋め合わせをしようしている、そんな風に私には思えてならない。メル友の数が多いこと、携帯電話の呼び出し音で忙しいことや自分のプログへの閲覧者が多いことなどが「つながり」の実感というわけである。

 だとするなら、呼び出し音が一日一回しか鳴らなかったとしたら、つながりは一回だけということである。もし仮に一回も鳴らなかったとしたら、「友達はひとりもいないことになる」と携帯の持ち主は感じてしまうのかも知れない。そうした状態は、そのまま「私が無視されている」ことと同義である。そこに存在しているのは、「必要とされていない私」の孤独な姿であり、もっと極端に言うなら「私が存在していない」ことの思いにまでつながってしまうからである。

 対面による交流でない携帯でのつながりは、着信音や画面でしか確認することはできない。しかも相手はこちらの閑散繁忙のなどの状況を知らないまま発信するのだから、その知らせはいつ届くか分らない。だとするならトイレも、風呂も、起きているときはもちろん寝ているときも、その知らせを逃すことはできない。なんたって、他者とのつながりを確認できる唯一の手段だからである。

 そうした思いは、やがて着信音が鳴らなくても安心できなくなる。なんらかの操作の誤りで、着信音を鳴らないようにセットしてしまったのかも知れないし、その音を聞き逃すことだってないとはいえないからである。大切なつながりを、そんな不注意で逃してはいけない。「雑踏の雑音に紛れていたけれど、聞こえたような気がする」、「確かポケットなかでマナーモードの振動を感じたような気がする」の思いは、やがて持つ人にもっと強い強迫を要求する。着信音の第一音で相手に反応することである。そのためには、常に「携帯着信待ち」の臨戦体制に自分を置いておく必要がある。つながりを希求する人にとって、打てば響く状態にあるこそがつながりの理想だからである。そして臨戦態勢の究極は、携帯のスイッチを切らないことである。

 かくして孤独からの逃避が、携帯依存を作り出すことになる。なぜなら、孤独は恐怖だからである。他人から無視されることや気にされないことは、「私の全存在の否定」の象徴になってしまうからである。そんな強迫の風潮が、携帯を通じて社会に蔓延しているように思えてならない。そんな状況は間違いだとは思うけれど、それでしか今の若者は他者とのつながりを実感できないようになってしまっているのだろうか。

 当人は面倒くさいとか、うざいとか表現しているようだが、若者からメール以外による会話が消えていっているという。メールの方が煩わしくないとか、即座の訂正の効かない会話よりも人当たりが柔らかくなっていいとも言う。確かにメールの利便性を否定できない場合もあるけれど、メールが一つの通信手段であることを超えて人のコミュニケーションの変質にまで及んでいる現状に、私はどこか危機感みたいな思いを抱いている。

 今朝もまた通勤電車で座席に座っている若い女性が、私が乗った発寒駅から二駅先の琴似までの二区間5分足らずの間に3度、携帯を開き、閉じ、開き、閉じ、開く姿を見せられた。携帯なしでもまるで孤独を感じたことなどない一老人の心配など、余計なお世話だと言われてしまえばそれまでのことではあるのだが。


                                     2012.12.14     佐々木利夫


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孤独の恐怖