日本語についてはこれまでも繰り返しここへ発表してきた(別稿「・・・いいかなと思います」、「『かわいい』再考」、「『かわいい』と『美しい』と」、「ご自分様」、「全然大丈夫」、「・・・もらっていいですか」、「餌をあげる」、「煮詰まる」など参照)。書いているうちに、「少し考えすぎかな」とか、「もしかしたら私の勝手な思い込みなのかな」などと感じることも多いけれど、それもこれも含めて私自身である。

 @ 応援よろしく

 高校野球、夏の甲子園のシーズンになった。8月5日組み合わせ抽選会が終わり、いよいよ9日から試合が始まる。私自身丸っきり野球には興味がなく、このシーズンはテレビもラジオもプロ野球も含めて野球中継がやたら多いのでいささか辟易しているが、それだけ興味人口が多いことによるのだろうから私一人が反発したところで仕方のないことである。チャンネル変え、これまたまるで興味のない外国語講座などでお茶を濁すのも一興である。

 ところで野球だけに限り訳ではないのだが、多くのスポーツ選手が観客なり視聴者に向かって話す言葉の中にこの「応援よろしくお願いします」がある。短い言葉で意思を伝えたいのだろうから、そうした意味ではこの言葉に何の不自然さも感じない人も多いことだろう。
 だが私にはどうにも「応援」と「よろしく」とが直接結びつける表現に違和感を感じて仕方がないのである。「気になるから更に気になる」ことなのかも知れないけれど、私は「応援(を)よろしく・・・」の「を」が抜けているような感じがしてならないのである。場合によっては、「応援」と「よろしく」の二つの単語の中間に空白と言うか一拍の無音状態を入れることでもなんとか納得できないわけではないのだが、そのまま結び付けられてしまうとどうにも落ち着きが悪いように思えてならないのである。

 こうした表現は、野球だけでなくサッカーでも相撲でもゴルフでもマラソンでも、いやいやスポーツだけに限らず、将棋や囲碁や歌や何かの作品展への出品する人たちなど、応援者や支援者を意識した人がその応援者などに向かって発言するような場合にはいたるところで見ることができる。

 こんなにもこうした表現が広まっていることは、それだけこうした表現への支持者が多いといういことであり、もしかしたら何の違和感もなく使っているのかも知れない。だとすればそうした違和感は私だけのものであり、日本語の用法として何の間違いがないのかも知れない。

 たかだか二つの単語の間に「を」が入っているか抜けているかだけの違いでしかない。それでもなお私には、野球やサッカーやゴルフの試合などで何かの成果をあげた選手などが、競技場の真ん中でテレビカメラに向かって声張り上げる「応援よろしく」のメッセージには、どこか引っかかって仕方がないのである。

 A ちょう・・・

 「ちょう、嬉しい」、「ちょう、怖い」などといった表現が流行りだしたのは10年くらい前からのことだろうか。若者言葉の一つだと思っていたこともあって、一過性でやがて消えていくのだろうくらいに思っていた。
 だがこの頃では大人(使い始めた若者が年齢を重ねていっただけでなく)までもがこうした表現を使うようになってきていて、ふと気になりだしたのである。

 この「ちょう」は恐らく「超」のことであろう。ある事柄に「超」をつける使い方は私たちも日常的に使ってはいる。例えば「超新星」だとか「超音波」、「超高速」などである。だから日本語の中に「超」をつける熟語がないわけではない。

 だがその「超」は名詞の頭につけられることが普通ではなかっただろうか。「新星」や「音波」や「高速」などの名詞の頭につけ、それを超える新しい状態を示したのが「超」の意味ではなかっただろうか。そうした意味では現代の使い方も「ある状態を超える」と言う意味では何の違いもない。ただ「超」がひらかなの「ちょう」になっただけなのだから・・・。

 しかし「ちょう」をつけられるのは名詞ではなくなった。「嬉しい」、「きれい」、「感動した」などの形容詞につけられることが極端に多くなってきた。むしろ名詞につく用法は僅か数語ていどの限定された熟語にしか表われないのに対し、形容詞にはその形容詞の数のあるだけ無制限につけられるまでに広がってきているような気がする。つまりあらゆる形容詞にこの「ちょう」の接頭語がつけられるまでに普及してきているような気さえし始めている。

 だが「超」と言うのは、それがつけられた名詞を単に超えるとの意味をもつのではなく、その名詞の意味を超えた新しい概念を示していたのでないだろうか。「超音波」とは単に音波を超えると言う意味ではなく、従来の音波の概念とは質的に異なる意味を与えるために付されたのではないだろうか。ところが「ちょう」はそこまでは意味しない。もちろん形容詞につけられるのであるからある程度を超えるだけの意味である。「すごく」とか、「とても」程度の意味である。
 そもそも形容詞に超の文字をつける用法と言うのは日本語にはなかったのではなかっだろうか、と私は思い、そうした思いこそが時代に変化し対応していく「言語そのものの宿命」を理解していない老人のたわごとなのかも知れないと思うことしきりである。

 そうは言っても、「間違った使い方なのではないだろうか」と気になること自体に、どこかで「日本語を大事にする日本の老人のあるべき姿」みたいな僅かな矜持が見え隠れするのも事実ではあるのだけれど・・・。



                                     2009.8.12    佐々木利夫


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