病気になったら医者に診てもらうことは、私たちが日常何の疑問もなく抱いている感情である。それは単に自分の体だけでなく、家族や友人などへの助言にしたところで同様である。腹が痛い、足腰が痛い、なんとなく具合が悪い、どうもいつもと様子が違うようだ・・・、怪我や火傷などの明らかに治療が必要と思われることからどこか普通でない感じがするなどの思いにいたるまで、私たちは「医者に診てもらおうか」とか「病院で検査してもらったら」との思いを当たり前に感じている。

 ただその一方で、病気とはいったい何なのだろうかとも思う。単に「正常でない状態」を「病気」と判断することも可能かも知れないけれど、そうなると「正常」の判断そのものがよく分からなくなってくる。まず正常かどうかを判断するのは誰なのだろうか。一義的には自分ということになるだろう。だからと言ってその判断が正しいかどうかはかなり疑問である。腹が痛いのにこの程度の痛みなら正常だと判断して、実際は盲腸炎やもっと重篤な病だったという話など珍しくないからである。では医者の判断を根拠にするのかというとこれも疑問がないではない。

 これは「医者も誤診することがある」とのことを言いたいのではない。感触で言うのは誤りだと思うけれど、医者もまた病気であることと正常であることとの違いを必ずしもきちんと理解できていないのではないかと思うからである。それはつまり医者にも病気の定義がきちんと分かっていないのではないかということである。そしてそんな状態のまま、病気というか病名だけがやたらと増えてきているように思える。

 最初に感じたのは精神科の分野であった。精神科が扱う症状がどんどん増えていって、病気なのか単なる感覚なのか、何が何やら分からなくなってきたと書いたのはもうかなり以前のことになる(別稿「増えていく『うつ』」参照)。そうした傾向がこの頃は、精神科に限らずあらゆる診療科目で増えていっているように思えてならない。特にその症状を「○○症候群」などと表現するようになってからは一層拍車がかかってきているようだ。
 こうした傾向が気になりだしたのは、「不定愁訴」という言葉が巷にあふれ出してきてからのように思えるからけっこう昔のことになる。これが病気としてどこまで正式に認知されているのかどうか私には理解できないでいるが、この言葉が独立して使われているのは紛れもない事実である。

 恐らく誰が見ても病気だと判断されるような症状は間違いなく存在していることだろう。腹が痛いと七転八倒している状態や交通事故の現場で血まみれの姿を見て、それが正常の範囲内だとは誰も言わないだろう。そしてそうしたいわゆる「異常」から「正常」までには、ある種の範囲というか幅があるだろうことは理解できないではない。だがそうした思いも、もしかしたら幻想なのかも知れないとも思ってしまう。

 私が朝6時に起床して出勤し、夕方何事もなく事務所から自宅に戻って10時を過ぎたと感じて布団に入る。どこか痛いかと自問しても「特にない」と思う。食欲にも通じにも特に異常は感じられないし、新しいパソコンが欲しいと思っているからといって、そのことが日常生活のストレスになっているとも思えない。ならば私はいわゆる「病気」という側面からみて「正常」といっていいのだろうか。MRIを年に一回受けたり血液検査で糖尿病や前立腺の検査にも医者の診たてでは異常はないといわれている。だがもしかしたら私の体内のどこかで未発見の大動脈瘤が破裂寸前の状態にあるのかも知れないし、昨日の電車通勤で新型インフルエンザに感染し、今この瞬間に新しいガン細胞がすい臓に発生して二つに分裂し始めたかも知れないではないか。

 またいつもなら布団に入って本を読みつつ30分くらいで眠りにつくのが、昨夜に限って小一時間くらい寝付けなかったのはもしかしたらどこかに異常があるからなのかも知れない。そういえば雪道で滑って手首を突いて少し痛むのは、捻挫か骨折か単なる打ち身かはともかくとしてすでに立派な病名のある病気であり、その分だけ私は病気なのだと言っていいのかも知れない。だとするなら果たして「病気でない」状態など人にあるのだろうか。

 「我慢できる状態」を「病気でない」ことに結びつけるのは間違いだろう。腹や頭が痛いとか、なんとなく胃の調子が悪いなどと言って、常に医者に通っている人を知っている。回りは「また気のせいが始まった」とあんまり取り合わないらしいが、本人はいたって真剣である。そんな症状でも医者はなんらかの薬の処方をしてくれるらしいから、もしかしたら本当に病気なのかも知れない。だとすれば、医者が病気だと診断することが病気の判定になるのだろうか。
 それとも「医者が治療できる症状」が病気なのだろうか。これを認めるなら「治せない」のは病気でないことになってしまうから、やっぱり変である。

 こんなことを思いついたのは昨年暮れのテレビで放映された特別番組を見たからである。それは南米エクアドルを旅する俳優のドキュメントであった。アンデス山脈のふもとに住む民族は、インカの時代から氷河の氷を切り出して町へ運ぶことで生計を立てていたと報告していた。そしてそこに住む人びとはその氷河から流れてくる水を飲むことで病を癒してきたとも・・・(2011.12.27、NHKBSプレミアム、「旅のちから」)。

 そのとき思ったのである。彼らにとって氷河から流れ出る水こそが病を癒す力であり、その水を飲むことが病気でない状態への誘いになるのではないかと感じたのである。
 医者や病院などへの思いはこれまでにもいくつかここへ書いてきた(別稿「医者と患者と」、「麻薬所持と通報」、「病気と病名」、「余命宣告の意味するもの」、「薬で幸せになる時代」、「手遅れ医者は今も健在」、「全部患者のせい」などなど・・・)。

 でも私にはもしかしたら病気を治すのは医者ではないのではないだろうかとの思いがどこかに残っている。確かに劇的に効き目のある薬が存在するかも知れない。手術で腫瘍を切り取ることでガンが完治することだってあるだろう。でも治したのは薬でも医者でもなく、もしかしたら患者である本人自身の力なのではないだろうかとの思いである。その事実を忘れてしまって、製薬メーカーや医者は自らの判断や技術が治したのだと錯覚しているのではないかと思ったのである。

 もしそうした思いの中に少しでも真実が含まれているとするなら、氷河の水に病を癒す力のある事だって当たり前に認めていいのではないだろうかと思ったのである。
 免疫力だの自然治癒力だのという言葉がそうした自身の力を表しているのかも知れない。「病は気から」という古来からの表現もあるとおり、治りたいと思う力が治癒に向うのだとする思いは昔から存在していたのかも知れない。

 医療に従事する者に対し、自らに謙虚になるようにとの思いを込めて、「ピポクラテスの誓い」というのがあるとの話を聞いたか読んだことがある。その中味について私は詳しくはないけれど、医療がどんどん高度化し専門化していく過程は、どこか人間から離れた自動手術マシンの世界への移行を思わせる。もしかしたら医者がある人を患者と認定したり病気だと認定したりするのは、もしかしたらとんでもない驕りになっているのではないだろうか。これは言い方を代えるなら「健康であること」だとか「正常であること」の判断自体が、実は誰にもできないのではないかとの思いでもある。

 つまり人はどんな場合も「健康でない」状態にあるのであり、「死ぬほどの病気」までは単に程度の差に過ぎないのではないかということである。だから医者に限らずどんな人がどんな状態を見ても「病気である」と宣言できるのではないかということであり、しかも完全に健康な人などこの世に存在しないという前提をおくなら、その宣言に誤りもまたないことになるのではないだろうか。

 ここに医者の驕りが発生する大きな落とし穴があるように思える。東日本大震災の被災者の老人に、生活不活発病なる症状が起きていると言われている。これが正式な病名なのか通称なのか分からない。体を動かす機会が減ることで心身が衰える状況を指すと言われればその意味を理解できないではないけれど、それは症状や状態であって病名とは違うような気がどこかでしてならない。

 「頭悪い病」、「へそ曲がり病」、「ノーベル賞には永久に届かない病」、「芥川賞も同様である病」、「オリンピックに出るだけの能力を備えていない病」、「日夜年老いていく病」である私にしてみれば、この身にはこの他にも星の数ほども病気を抱えていることが分かってくる。だから病気であることの宣言を医者の専権事項だとし、しかもその症状に対して医者が病名を気ままにつけることの権能を与えられていると過信していることが、医者や医療を思いあがりの頂点にまで押し上げている元凶になっているのではないか、そんなことをふと感じてしまった今年の正月であった。


                                     2012.1.11     佐々木利夫


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