これから書こうとしているのは私の音楽の好みのことであり、しかもクラシックについてである。クラシック好きなどというといかにも高尚そうに聞こえるし、またそんなイメージを持たれることをどこかで意識しつつ私はクラシックの世界を漂ってきたような気がしないでもない。そんな見せ掛けの衣は今でも私の中から消えていないままのようだ。だからこれから書くことも嘘といえば大げさだが、どこかで自分を高尚に見せたいようなそんな衒学的な気持ちを漂わせていることは書く前から自覚している。

 私のクラシック好きについては何度もここへ書いたことがある(別稿「運命と根気」、「英雄ポロネーズ」参照)。それほどクラシックに造詣が深いわけではないけれど、ラジオから聞こえてくるオーケストラに指揮をしたり(別稿「ステレオと指揮棒」、「1940年のファンタジア」参照)、何種類もの楽器に挑戦したり(別稿「私の楽器遍歴(その一)(その二)」参照)、パソコンで作曲や編曲をしたり(別稿「私の楽器遍歴(その三)参照)などの過去を持っている。それはあくまで趣味の範囲内でしかないけれど、私の長い人生の一つの伴侶としての位置にある。

 私のクラシック好きがベートーヴェンの交響曲第五番「運命」から始まったことも影響しているのだろうが、好みの楽曲の範囲は交響曲が中心であった。まあクラシックといえばベートーヴェンやモーツアルトが出てくるのは定番中の定番だから、そうした意味では私のクラシック好きもご他聞に漏れず俗っぽさにかけては特別なものではなかったといえよう。

 もちろんオーケストラの壮大な響きだけが私を魅了し続けたわけではなく、ピアノ曲やヴァイオリン曲、歌曲やオペラなどもそれなり興味の範囲に入ってはいた。それでも興味の中心はやはり交響曲や協奏曲といったオーケストラによる演奏だったような気がする。

 クラシックを聞きながら涙するなんてことは滅多にないのだが、それでもベートーヴェンの交響曲第九番だとかシベリウスの交響組曲フィンランデアなどは聞くたびにジーンときていたし、ショスタコーヴィッチの交響曲第五番(別稿「ショスタコヴィッチ第五番」参照)にもまた胸の高鳴りを覚えたものである。

 それがいつの頃からだろうか、曲の好みが変わりだしたことに気づいてきた。最初は私のクラシックの曲に対する好みの変化によるものかと思ったのだが、実はそうではないことにやがて気づいたのである。交響曲が嫌いになったわけではない。通勤途上のNHKFMラジオから毎朝流れる「クラシックカフェ」や「気ままにクラシック」などはほぼ欠かさずに耳にしているし、歩きながら左手でストコフスキーを真似て指揮棒を振るような仕草もあまり変わってはいない。

 でもそれはやっぱり「ついで」に聴いていることに気づきだしたのである。聴いているのはあくまでも「歩きながら」であり、仕事をしながらの「BGM・バックグラウンドミユージック」でしかなかったからである。かつてはレコードプレーヤーに凝り、アンプやスピーカーにこだわったこともあり、管(真空管のこと)がいいか石(トランジスタのこと)がなどと気取ったこともあった。またラジオのFM電波を確実に捉えるためにアンテナを自作してベランダに取り付けたこともあった。
 そうして聴く曲は、そのための時間をその曲に捧げたともいえるほどであった。たとえそれがヘッドホンに区画された閉ざされた空間にしろ、そうした時間は家族さえも侵入できない私だけのものであった。

 そうした時間を持つ余裕というかゆとりみたいなものが、いつしか私の中から消えていった。忙しいからではない。忙中閑と言う言葉があるが、むしろ忙しい中にこそ趣味にしろ遊びにしろ自分の時間を作れることは私の経験していることだったから、忙しいことは余裕がないことの言い訳にはならないだろう。特に定年退職後ひとりの税理士事務所を開いてからは、気まま過ごせる時間がふんだんにあるようになってきたのだから、音楽を聴く時間が足りないなどというのは丸っきりの嘘である。

 そこで気づいたことの一つは気が短くなってきていることであった。例えば交響曲というのは演奏時間が一曲あたり30分から40分くらいかかるのが多い。ベートーヴェンの第九なんかは指揮者などによって多少異なるけれど、1時間10数分を要する大曲でありオペラなんぞはワーグナーにいたっては数時間数日というのすらある。嘘か本当か知らないけれど、例えばCDやMDなどの一枚あたりの録音時間が70分を超えるような規格になっているのは第九を一枚に納めるためだとすら言われているくらいである。

 つまり私が好きな曲を気持ちを込めて聴くということになると、1時間を超える時間をその曲と真正面から向き合わなければならないことを意味している。そうした集中する時間が私の意欲の中から少しずつ失われていっているようなのである。暇な時間そのものはたっぷりある。だが集中するための根気が乏しくなっていっているということなのである。聞き流すだけならいいけれど、その曲に向き合い集中するだけの気力が私から少しずつ削られていっているのである。
 クラシックはどちらかというと重い。中でも交響曲であるとか協奏曲などは更に重い分野に入るだろう。それにまともに付き合うだけの根気が私の中から失われていっているのである。

 だからと言ってクラシックが嫌いなるほどの大きな変化がこの身に起きたわけではない。つまりは重いものから軽いものへと少しずつ変化していくのである。それでも一気に例えば「エリーゼのために」だとか「トロイメライ」やオペラの間奏曲のような小曲に移ってしまうのも、どこかクラシック好きを自認する身にはいささかの抵抗がある。そこで軽めだけれど一応は重さを持っているような古典派への好みの推移がこんなところから現れてくるようになるのである。バッハやヘンデル、そして室内楽、弦楽四重奏曲、ピアノ独奏曲などへの変化である。こうした道筋もまたクラシック好きを自認する身のペダンティックな一面をあらわしているのかも知れない。

 そうした過渡期の現在位置が、バッハの無伴奏チェロ組曲である。バッハには無伴奏のヴァイオリンソナタも何曲かあって中には有名な曲も多いのだが、そこを飛び越えてチェロにまで行ってしまったのには理由があるかも知れない。様々な楽器遍歴の中でチェロに挑戦しようかと思ったこともあったのだが、楽器のあまりの高価さに断念したことも、チェロにひねくれた復讐心みたいな気持ちを抱かせているのかも知れない。また人間の声に近い音域で静かな雰囲気を持っているチェロはもともと好きな楽器であり曲でもあったことも後押ししているのかも知れない。それにエッセイにも書いたことがあるけれど、チェロ奏者のパブロ・カザルスが国連で演奏したとされている小曲「鳥の歌」(別稿「12月8日の鳥の歌」参照)にも影響されて、チェロ演奏に親しむ機会が増えていったことも影響しているかも知れない。

 とは言っても私がバッハや彼の作曲したチェロ組曲を理解しているとは必ずしも言えない。聴いている曲が長調なのか短調なのかも分からないことが多いし、組曲の定義も平均律の意味などもまるで分かっていないからである。それでも聴いていてバッハというのはやっぱりすごいなと思ってしまう。何がすごいのか、どこがすごいのか、どんな風にすごいのか、そんなことも実は私には分かっていない。ただただ単調なチェロの無伴奏の静かな響きの中に沈んでいくのみである。この曲は聞き流せるのである。聴くための力みが要らないのである。

 それはクラシックと向き合う方法としては間違っているのかも知れない。音楽を聴く、しかもクラシックを聴くというのは、別に衣を正してコンサートに出かけたり、ステレオ装置の真ん中にかしこまることが必要だなどと思っているわけではない。ただそれでも聴く以上はどこかでまっすぐ向き合う姿勢が必要ではないかと、私は無意識に感じていた。その向き合う姿勢が、バッハの無伴奏チェロ組曲は楽なのである。

 こうしてワープロに向って文章を作っていても思考が途切れることはないし、ヴォリームを下げた演奏は来客との会話の妨げになることもない。注意を向ければ音楽が聞こえてくるし、考え事や会話に意識を向けると音楽は何の邪魔にもならなくなる。聞こえているけど聞こえていない、そんな雰囲気をこの曲は与えてくれるのである。
 しかも、しかもである。さまざまに揺れる心を、この曲はどんな時も静めてくれるように囁いてくれるのである。「今がいい」、「これでいい」、「それでいい」、「あわてるな」、「ゆっくりしよう」、「そうだ、そうだ、その通り」、「少し眠ろうか」、「コーヒー飲む?」などなど、心ときめかせたり奮い立たせるようなことこそないけれど、いつでもどこでも今を是認してくれているような、そんな音で囁いてくれているのである。


                                     2012.11.15     佐々木利夫


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