「症」の字がついていて、症の文字そのものが「やまいだれ」で構成されているのだから、依存症も正式な病気に分類されるのだろう。アルコール依存症、ギャンブル依存症、薬物依存症などからセックス依存症にいたるまで、名称からだけではどんな病気なのか分らないものまで含めて多くの依存症がある。果たして依存症にはどのくらいの種類があるのだろうか。

 例えばスマホ依存症とかインターネット依存症というのがある。スマートホンであるとかインターネットそのものがここ数年か数十年で普及したものだと思うから、そうすると依存するような対象が既存にしろ新規にしろ身近に発生してくる都度、依存症もまた新しく生まれてくるということなのだろうか。

 最近、スマホの位置情報を利用して画面に映り込んでいる架空画像のポケットモンスターを捕まえるというゲームソフトが開発された。レアなモンスターを探して、私有地や立ち入り禁止地域などに入り込んだり、運転中に熱中するなど、このゲームにはまる人たちの行動が世界的に問題視されるようになっている。もしこのゲームにはまってしまうことで、交通事故を起こしたり他人の住宅や敷地に無断で入り込むなどの社会的な悪影響を及ぼすことが起きたとしたら、その起こした人の行動をポケモン依存症と呼んでもいいのだろうか。

 つまり、依存症は「依存する対象」の数だけ存在するというなら、依存症もまた無数に存在するということになるのだろうか。そんなこんなを考えているうちに、一体依存症とは何なのだろうかと思うようになってきた。

 依存症については、これまでも何度となくここへ書いてきた(別稿「私の中の心療内科」、「老いて人は足跡を残したがるのか」、「私も依存症?」、「広がっていく心の病」、「私の中のアルコール依存症(1) 同(2) 同(3)、「麻薬所持と通報」、「カバン依存症」、「個食は孤食なのか」などなど参照)。

 依存症とは国語的には「ある物事(物資ならアルコールや薬物、行為ならインターネットやギャンブル、人間関係なら親や友人などとの付き合いなど)に依存し、それがないと身体的・精神的な平常を保てなくなる状態」を指すと言われている。

 だが考えてみると、「身体的・精神的な平常」とは一体何なのだろうかとの疑問がすぐに湧いてくる。学問でもいい、趣味でもいい、運動や遊びや、何なら悪事だっていい。人間が行う様々な行動の中で、平常を乱さないような動きなどが果たしてあるだろうか。平常を乱さないような行動が皆無だとは言わない。例えば禅に没入して瞑想するとか、茶道や華道で精神を統一する、夢も見ないような熟睡をしているなど、それを平常と名づけていいのか分らないけれど、ある種の行動で心臓の鼓動も脳の活動も静かに押えられるという状態がないとは言えない。

 だが行動のほとんどは、何らかの身体的・精神的な平常を乱すような結果を招くのではないかと思うのである。例えばピアノを弾くような状態を考えてみよう。大会や発表会や審査会に出る。うまく弾けるだろうか、間違わないだろうか、曲の情感を聴衆にきちんと伝えられるだろうか、調律はちきんとできているだろうか、などなど、恐らく無数とも言えるような心配事がそのピアノ演奏に関わって発生してくるのではないだろうか。

 演奏会の前日には眠れないかも知れない。自分専用のグランドピアノが欲しいと思い、過大とも思える借金をしたかもしれない。肉親や友人との交流が毎日の練習によって妨げられたかもしれない。遊びに行く時間を削り、ピアノ以外の趣味を犠牲にし、恋愛や結婚、更には数学や物理などへの興味すらも諦め、ひたすらピアノに捧げる人生を送ってきたのかもしれない。選択したことや努力が成果へ結びつかないことだってあるだろう。凡庸だった才能は、せいぜい近隣の子どもたち数人にバイエルを教える程度にしかならず、親に衣食住を任せてきた生活は、自立できるだけの収入もない。クラシックにもジャズにも目覚めることなく、ある日老いた身が古びたピアノの傍らにポツンと佇んでいるのを知る。親は去年死んだ・・・。

 それはそれでいい人生だったと、言い訳ともつかず自己満足ともつかず、嘆きでもなく、後悔でもなく、ふっとため息をつく、そんな人生を人はピアノ依存症と名づけて責めるのだろうか。

 確かにアルコールを含めて、薬物に狂乱する行動が異状であることを分らないではない。競馬やパチンコにのめり込んで家庭を崩壊させてしまうような行為が正常だとは思わない。それはそうなんだけれど、何でもかんでも「依存症」というレッテルを貼ることで、何かが解決してしまったかのように流れていく社会の風潮はどこか変である。

 特に精神に関わる「普通とちょっと違う」ことどもについて、何かしらの病的な名称を付することによって、あたかもそうした「他人とのすれ違い」が解決したかのように理解してしまう風潮がある。特に現代はそうした傾向が強くなっているのではないだろうか。

 依存にどの段階で「症」をつけるべきか、どこまでつけないで放置しておいてもいいのかなど、そうした基準をどんな風に設けたらいいのか私には分らない。だがどんな個人にも組織にも「依存」はあり得ることだと思っている。むしろ、「依存のない状態」なんぞは、人にも社会にもあり得ないのではないかとすら思っている。生きること、活動すること、そうした人間や組織の基本な行動や目的そのものが、「依存」を背景に持っているのではないだろうか。

 ならば「依存」と「依存症」とは程度の問題として理解すべきなのか。こうしたボーダーへと議論が入り込んでしまうと、私はいつもそこで混乱してしまう。あらゆる定義が、このボーダーというカテゴリーの中では完膚なきまでに曖昧模糊になってしまうからである。

 私たちはそうした考えがきちんとした理解や解決に結びつくものではないことを承認しつつも、二元論で世の中を割り切ることに一応の納得をしてきた。社会の規範と呼ばれる多くも、そうしたシステムで成り立ってきた。善と悪、光と闇、火と水、生と死、天と地、沈黙と饒舌などなど、私たちが何らかの基準として信じてきた社会的な規範の様々が、一旦「程度の問題」という概念の中に放り込まれてしまうと、とたんにその境界が不明確になってしまう。

 依存の問題は更に複雑である。ある状態や状況が依存なのかそうではないのか、依存しているとしてもそれを果たして依存症レベルにまで達していると判定していいのか、それほどではないのか、それらが混然となって分らなくなってしまうからである。

 どんな人にも、そしてどんな組織にも依存はあると書いた。だがそれも程度の問題なのだろうか。例えば私が「酒が好きだ」と言ったとき、私は酒好きが原因でもしかしたらノーベル賞に匹敵するような研究をないがしろにしてしまったのかもしれない。何度も飲み会に参加したことでピアノを購入する資金の余裕がなくなり、ピアニストになるための道を自ら閉ざしてしまったのかもしれない。酔っ払って面倒くさくなり、病院の検査を受ける機会を放棄し重大な疾病の発見を見逃してしまったかもしれない。同様に、酒好きのせいで、私は画家や作詞家やサッカー選手やパイロットなどなどへの道を閉ざしたかもしれない。もちろんその反面として、やくざや盗人や殺人者への道を閉ざしたかもしれないとも言えるのだが・・・。

 こんなことを言い出したらきりがないことくらい承知している。でも仮にそれら数多の選択肢の一つが酒好きのために放棄されてしまったことが証明されたとしたら、それで私は「アルコール依存症」とされるのだろうか。そしてもし仮に、酒を楽しむ人生を選択したことを、もしくは選択したとの意識はないまでもそんな人生を過ごせたことを後悔しなかったとしても、それでも私はアルコール依存症なのだろうか。そして更に更に、仮にそんな人生を後悔したとしたなら、その後悔をした時点で私は突如として依存症としての宣告を受けることになってしまうのだろうか。

 私はどこかで、「依存」という流れに安易に「症」という文字を付してしまうことに抵抗を感じている。それは「症」なのではなく、むしろ人間の本性そのものなのではないかと感じているからである。何がよい方向で、何が悪い方向なのか必ずしも私に理解できているわけではない。だが「依存」は人の存在そのものに備わっている基本的な感性なのではないだろうか。そして「依存」がない状態というのは、あえて言うなら人間そのものが存在していない状況、人を否定することにも匹敵するとも感じてる。

 まるで違う話になるけれど、北朝鮮が国際的な批判を承知の上でミサイル発射やそのミサイルに搭載する核弾頭の実験を繰り返している。そうした行動が強権的な指導者個人の思惑によるものか、それとも国家の意思と呼んでいいのか、そこのところは分らない。それでもそうした行動は、私には一種の核兵器への依存であるように思えてならない。

 何かを信じる、何かに頼る、そうした思いが強くなると、人や組織はいつかその行動に「依存」するようになる。そんな依存への思いにあっさりと「症」の文字を付すことで、病気だから治療できるなんぞと思い込むのは、もしかしたら依存状態を病気と判断したことも含めて、人の持つ致命的な驕りなのかもしれない。


                                     2016.9.9    佐々木利夫


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人と依存症