「生と死」について前回まで2回に分けて書いてきた(別稿「
生と死(1)」、「
生と死(2)」参照)。とは言っても、生きるとは何か、死とは何かなどについて論じたのは、これが最初ではない。自らの加齢が、老いやその先に控えている死へと近づいてきているからなのか、それともこうしたテーマそのものが私たちに宿命的に与えられた課題なのか、それはともあれ厄介な問題であることだけは確からしい。
「死」もまた多数人に承認された定義であり、しかも定義と名づけてみたところで、それは時代や人種や民族などによって変化していくものなのかもしれない。しかもその変化は、多人数によるとてつもなく長い時間をかけた変化なのではないかと私は思っている。
そうした変化することへの要請が、最近は多人数の承認、国民の意識変化という要件を追い越してしまっているように思えてならない。そうした意識変化を、例えば学者、例えば宗教家、例えば政治家や識者などが自らの都合が良いと思う方向へと、意識的に誘導しようとしているように思えるからである。しかもその誘導の根拠に、「科学(もしくは科学者)の驕り」(もしくは暴走)であるとか、そう思うべきだというような正義感を背景とした正論の押し付け、経済的成果を目的とした金儲けへの目論みなどの思惑が見え透いているように思えてならない。
前回ここで、死は本来他者にとってはゆっくり訪れるものなのではないかと書いた。死の判定を急ぐ必要などないと思ったからである。死の判定を寸秒の単位で要求するという習慣も時代背景も、これまではなかったと思うのである。なぜなら、生と死について迷ったら、その「死体」はまだ生きていることにすればいいだけだったからである。
臓器移植が、どこまで進化していくのか私には分らない。人体が移植される他者の臓器を拒否するのは、個体である身体が「私であり、私以外ではない」ことを示す正当な機能であり、同時に主張なのかもしれない。だから免疫抑制剤などで移植による拒否反応を制御しようとしている現在の医療技術は、もしかしたら一過性、過渡的な間に合わせに過ぎないと考えることもできる。恐らく将来は、3Dプリンターなどで作られた人工臓器の出現が当たり前になり、実現するだろうとも言われている。
心臓や肺や肝臓などなど、人工的に作られたパーツが人体の不良部分と交換される未来が間もなくくる。そして移植される範囲が内臓のみならず皮膚や骨格、なんなら脳にまで及んだとき、それらを組み込まれた「私」は、果たしてどこまで「私」なのか、そこのところはとりあえずここでは論じないことにする。
ただ現在は人工臓器は未完成だし、例えば「私の代替心臓」を予備的に豚や牛など他の生物を利用して作るような技術も、実用化には程遠いものがある。そんなときに生まれたのが、「脳死」という考え方であった。新しい死の定義のスタートである。このときから、死には二つの定義のあることが、公に主張され、私たちにそれを承認するよう迫られることになったのである。
一つは「自らの命」の死であり、もう一つは「他者のため命」の死である。その二つの定義が、一つであるはずの「私の命」に与えられたのである。いやいや、与えられたのではないのかもしれない。「与えられていると考えろ」と強要されることになったのである。その強要は自らのみでなく、自らの配偶者や親族をも巻き込むことになった。
臓器移植については、既にしつこいほど繰り返しここに書いてきた(別稿「
画像診断医」、「
リハビリ中止と死の宣告」、「
ドナーカード」、「
発生生物学」、「
臓器移植に抜けているもの」、「
脳死と死と命」、「
生き返る死体」、「
自らの存在とは」、「
不死への願望」、「
移植を受けた患者の死」、「
気になる臓器移植(1)、
(2)」、「
命の質(1)、
(2)、
(3)」などなど参照)。だから臓器移植についての私の思いについては、それらの論述に譲りたいと思う。ただ、私が考えているのは、臓器移植の必要性という思いが、私たちに対して死の再定義を強要しているのではないかということである。
それは「脳死」という概念を取り入れたことにあると思う。「ここに横たわっているあなたの愛する妻や夫、娘や息子さんは、心臓も動いているし呼吸もしています。だがそれは人工心肺という機械によって本人の意思とは無関係に動かしているだけです。決して本人の脳が蘇生することはありません」、それを死と認めよと要求するのである。いやいや脳死の後に配偶者や親族に要求するだけではなく、ドナーカードであろうが、メモや思い出の中の意思表示であろうが、生きている時に「そういう状態になったら、死と認定してもかまわない」との思いまで強要することになったのである。
そして臓器移植に携わる人々は、移植を承認した本人以外の家族も含めて、「私たちは生きている者を切り刻んでいるのではない。死体から臓器を取り出しているだけである」と思い込むのである。
脳死が死であるなら、脳死の段階で医師などのすべてがそこで「死亡」として宣告するかというと決してそんなことはない。人工心肺であろうと薬剤によるものであろうと、その死体の心臓が動いている限りは、死亡宣告がなされることはないのである。つまり、「臓器移植に利用できる臓器を有している脳死者」のみが死の宣告がなされるのである。それはつまりそれ以外の、「臓器の利用ができない、もしくは移植の承認が得られない脳死者」は、まだ「生きている」とみなされるのである。
つまりは、脳死は臓器移植に関してのみ「死」なのである。ここに二つの死の定義が目に見える形で現れてくる。ここに同じ状態の二つの人工心肺につながれた患者がいる。一方は90歳を過ぎた老人で、年齢的にも機能的にも肺も心臓も肝臓も移植に使うことはできない。他方、もう一つの患者は若者で、脳以外に損傷はなく臓器の移植が可能である。
見かけ上どころか、診断上からもこの両者に「臓器が移植に使えるか」以外に命の差はない。でも親族の承認や生前からの患者の意思なども要件とされるとは言いながら、若者は死体として処理されるのである。なぜならその臓器には、財産的価値、資産としての価値、他者を救える資源としての価値を有しているからである。
繰り返し言う。若者の死は、若者固有の死ではなく、「臓器を利用できる」という意味での死なのである。心臓が動き、呼吸しているにもかかわらず、それはその一点のみで「死体」になるのである。その一方で「移植に使えない者」は、同じ状態であっても「まだ生者」なのである。後者もそれほどの時間を置かずやがて人工心肺は外され、心臓死になるであろう。でもそうなってから始めて「死体」になるのである。
更に、これは議論のための議論のような気のしないでもないが、こんなことも考えられる。ここに一つの若者の脳死体がある。本人も生前に移植を希望し、両親も先刻移植を承諾した。脳死の判定経過を詳しくは知らないが、複数の判定専門医師が複数回の診断を経て下されると聞いている。だからその判定は恐らく厳密な意味での死の判定であろう。ここにあるのは、紛うかたなき死体である。
執刀医にとって目の前にある脳死と判定された死体から、動いている心臓を取り出すことに何の躊躇もない。メスを入れる瞬間に、両親が叫ぶ。「やめてください」、「この子を殺さないで・・・」、「移植をしないと書いた本人のドナーカードが見つかった」などなど・・・。さて、当然に執刀は中断されるのだろうか。中断した時医師は、人工心肺のスイッチを両親の承諾なくとめてしまっていいのだろうか。それともその時、その死体は脳死の要件を満たしていないことになったことで、「脳死でない」、つまり「生き返ったこと」になるのだろうか。
一つであるべき死に、異なる判断がなされるようなケースがないとは言えないだろう。死の判定は人が行うのであるから、そこにある程度死の判定に差が生じるであろうことを否定はしない。だからと言って、「臓器移植が可能かどうか」、親族の承認や了解だけを基準にしている現在の「脳死の判定」に、私はどうしても納得ができないでいるのである。それが私の、「死の再定義」に対する解決できない疑問なのである。
2017.6.3
佐々木利夫
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